北大路機関

京都防衛フォーラム:榛名研究室/鞍馬事務室(OCNブログ:2005.07.29~/gooブログ:2014.11.24~)

【京都幕間旅情】東福寺,伽藍と紅葉彩り背景に無準師範と聖一国師円爾出会いを遡れば玄奘三蔵と道昭との出会い

2024-11-27 20:24:40 | 写真
■無準師範と聖一国師円爾
 寺院というのは出会いの場所なのだなあ。

 東福寺、三連休の初日に拝観へと歩み進めました。九条道家が開基となり、聖一国師円爾を開山に招いて造営しました臨済宗の寺院です。円爾さんはヴァスバンドゥの仏教宗派解説書であるアビダルマコーシャカーリカーの翻訳阿毘達磨倶舎論を幼くして学ぶ。

 アビダルマコーシャカーリカー、というとなにか格好いいですが、三蔵法師こと玄奘三蔵がインドから持ち帰った経典で、日本へは遣唐使として派遣された法相宗の僧侶道昭が西暦653年に玄奘三蔵本人に拝謁した際に訳版を託され、日本に伝えられた。

 園城寺にて得度し東大寺で受戒した円爾さん、この頃は弁円と名乗っていまして、上野国長楽寺、現在の群馬県太田市に現存している長楽寺の栄朝に師事し、そして臨済宗を学ぶべく鎌倉寿福寺の行勇に師事したのち、大陸は宋にわたっています。

 臨済義玄の拓いた臨済宗、悟りにいたるために数回の殴り合いと暴力が絡む黄檗三打という過程があって、黄檗三打も三回くらい叩かれたのかと思ったらば黄檗老師を訪ねたところ30発棒で殴られたといい、師匠に数発腹にぱんちとか、すごいのなんの。

 河北省に臨済寺が現存していて、もっとも臨済義玄さんは咸通7年頃つまり貞観6年、西暦ですと866年に入寂されています、あの富士山貞観大噴火の翌年くらいですね。円爾さんが生まれたのは建仁2年、つまり西暦1202年ですので実のところ接点はない。

 黄檗三打という歴史を知った上で中国拳法なんかをみていると、臨済寺もなにか拳法ができそうな配置となっていまして、昔の中国の寺院はバトルが起こっていたのか、と懸念するとともに、日本からの留学僧にもバトルがしかけられていたのではないか。

 禅宗、臨済宗も禅宗なのですが、大陸の新しい仏教となっています。そして当時日本の仏教界でも変革を模索する動きがありまして、いや言い換えれば宋に渡ればなんとかなるという、2000年代のアメリカ留学ブームのようなものが鎌倉時代に起こっていた。

 渡米か渡宋か、ともあれ我が国は渡るの大好きだなあと思いつつ、英語能力に限界があって日常会話しかできないのにアメリカ留学を行って何も専門研究を学べなかったという方がいた通り、実際当時の宋への留学僧も中国語が駄目だった人は多かったらしい。

 渡宋の語学問題は、当の宋で受け入れた寺院や官僚の、いや語学ができた日本からのりゅう学僧の日記にさえ嘆かれていて、しかしそうしたなかで円爾さんは径山寺の無準師範に師事しました、径山寺、ここは宋時代に醤油を日本に伝来させたともいわれる。

 無準師範、宋時代禅林中の巨匠と言われる方で兀庵普寧と西巌了恵と別山祖智と断橋妙倫の高弟を四哲として宋時代に大きな影響を及ぼした僧侶で、また絵画の才能にも秀でていたという。与円爾尺牘というやりとりの当時の親書が東京国立博物館に現存する。

 与円爾印可状、えんににあたういんかじょう、と読むのですが無準師範さんが円爾さんに書き与えた印可状が今も東福寺に現存していまして、意志を持って学ぶものと教えるもの、仏教徒は哲学的なものなのですが、そのつながりを今に見ることもできるのですね。

 径山寺も臨済寺も現存しているのですが、臨済寺は戦後荒廃した時期があり、その際に手を差し伸べたのが日本の数多ある禅林寺院であったという。考えれば八百年の出会いか、そう歴史と共に拝観しますと、また違ったものが見えてくるようにおもうのだ。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ まや
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【京都幕間旅情】東福寺,青椛と紅葉の狭間は黄緑椛で迎える師走前と今まさに進む気候変動最中の通天橋

2024-11-27 20:00:06 | 写真
■師走まで数日というのに
 寒くはなったのだけれども季節の移ろいは。

 師走まで数日というのに、東福寺の紅葉はこんな感じです。Dynabookで変換しようとすると東福寺の効用、と最初に出てくるほどに、最近のPCは言葉を知らないなあ、と思うとともに、紅葉という季節の風物詩が手元のPCからも遠ざかっているようで。

 臨済宗東福寺派の大本山、ここは通天橋を包む紅葉が京都を代表する風景の一つとなっているのですが、椛そのものが、一応暑さ寒さには強い植物なのですが、暑さではなく熱さというこの数年間の気象、気候変動という言葉を実感する最中では厳しいのか。

 東山区本町十五丁目に所在します東福寺は、その名の通りのJR奈良線東福寺駅から、寺域までは三分、通天橋などがみえる東福寺らしい風景までは徒歩十五分、といったところでしょうか、この広さが歴史をなにより語るとともに、紅葉の名所となっていて。

 東山区といいますと清水寺も有名ではあるのですが、京都は東海道新幹線と東海道線の長い鉄道高架橋により、なにかその南北で違う様相を感じてしまいまして、それは東山は標高が高いものの、鴨川に沿って永らく低地は水害に悩まされていた歴史がある。

 東寺が望見できるところからふと思い出すのは西寺、平安遷都とともに造営された官寺、東寺と西寺の二つの内、いま西寺が現存しないのはやはり、桂川の治水とも関係していまして、水害により荒廃したという。先の都は長岡京も浸水が遷都の理由だったが。

 水害、というものは気候変動と関係あるもので、過去にも火山活動や太陽黒点を契機とする気候変動は確かにあった、しかし京都の水害は築堤、もっとも有名なのはやはり豊臣秀吉の京都大改造だろうなあ、これにより、土木工事が平安京に安寧を齎した訳で。

 東海道本線東海道新幹線の南側には、山手を除いて急に寺社仏閣で古刹の風情を感じることができなくなるのは、こうした治水というものの安土桃山時代までの遅れというものと無関係ではないもので。しかし近年、気候変動が問題になる中で少々憂う事は。

 治水と気候変動の連環性というものをもう少し考えなければならないのではないか、紅葉の遅れ、と甘く書いた背景には単純に夏の長さと異常な高温が背景にあり、そう、春は三月四月五月、夏は六月七月八月、秋は元々九月十月十一月だった訳でして。

 師走が近くなるまで紅葉の気配がない、そもそも九月十月は秋の涼しさを感じることができたのは屋内の冷房の目の前くらいでは無かったか、と。これは同時に、紅葉の遅れに顕著化するのですが、見返してみると北大路機関創設当時は紅葉は十月に始まる。

 きせつの風物詩が寂しいね、というものだけではなく、椛は今後暑さが激しくなれば木々の生命力を維持できるのか、いや、既に庭園を彩る苔がもう緑を保てず枯死する状況が始まっていて、すると木々が枯死してしまうような未来もそう遠くないのでは、と。

 桜並木と梅花に始まる春は、もう四月に入る段階で桜花は早くも新緑に移り変わり、最早梅花は二月で終わりかねないものに、新年度に花見を楽しむことはもはやできない状況ですが、同時に気候変動は桜に有害な害虫を北上させ、国土は風景さえ変えつつ。

 治水、気候変動は降雨量の増大や台風の激甚化にも直結する事から、築堤や防風林の強化とともに、現在建築基準法は耐震基準に偏重していますが、耐風基準というものを相応に考え、風速60m/sや70m/sに備えなければならなくなるのか、と思うのですね。

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【榛名備防録】レバノン邦人退避支援ヨルダンC-2待機終了,その負担の大きさと求められる新国産輸送機

2024-11-27 07:01:41 | 先端軍事テクノロジー
■C-130R輸送機後継機
 C-130H後継機ではなくC-130R輸送機の後継機という変則的な視点になるのですが今回はこの話題を。

 航空自衛隊のC-2輸送機を補完する輸送機が必要ではないか、具体的には海上自衛隊のC-130R輸送機の後継機として使いやすい規模の輸送機があれば、例えば邦人救出における救出対象者が数百名ではなく十数名から数十名程度の場合や、海外派遣などの部隊に対する交代要員の輸送と物資輸送など、大型の輸送機を使う必要が無い状況で用いるもの。

 U-4多用途機を増強するとか、あまり難しいことは考えずC-2輸送機を派遣してしまう選択肢、もちろんKC-46A空中給油機など今後人員輸送機としても運用可能である空中給油機が増強されるのだから、そうした選択肢そのものを必要と考えることがナンセンス、と思われるかもしれません。ただ、輸送機が現状足りているのかという疑問符はあります。

 政府はレバノン情勢を受けヨルダンへ前方展開させていたC-2輸送機の撤収を決定、11月26日に撤収しました。たった1機ですが、情勢が急変した場合には即応できる、という意味で重要な選択肢でした。しかし、交代機の準備などを考えれば、レバノンに常駐させるだけでも現在の航空自衛隊輸送機定数を考えれば大きな負担だったことは想像に難くない。

 P-1哨戒機の派生型として人員輸送機を開発できないか。これはP-1哨戒機として計画だけ提示され実現しなかった人員輸送型のようなものではなく、P-1哨戒機の特性を考えて、です。基本運用重量は79.7t、C-2輸送機の基本運用重量が120tですので、C-2とP-1は共通部品を用いた姉妹機とはいわれるものの、機体規模はP-1がかなり小型となっている。

 P-1哨戒機の輸送機型、C-1輸送機といってしまうとなにか別の機体を、メーカーは同じだけれども勘違いさせてしまいそうで、P-1Cとでもいうべきでしょうか、P-3Cと似ている感じになってしまうのはさておき、P-1哨戒機は兵装搭載量が9tとC-1輸送機の間持つ輸送量よりも大きなものがありますし、なにより胴体構造が通常の旅客機とは違う。

 ソノブイベイ、P-1哨戒機の胴体下部にはソノブイベイが配置され、ここはもともと機内の与圧区画と連接しているのですね、ここにエアステア型タラップ、ボーイング727旅客機に採用されていた引き込み式の搭乗用タラップを組み込めば、戦術輸送機のように装甲車を載せるわけにはいきませんが、人員輸送は勿論、貨物輸送などに利便性が高まります。

 C-130R輸送機、海上自衛隊が導入に際して最小限度の予算で導入したために、維持運用に難渋しているという輸送機ですが、その後継機に、このP-1Cというべき機体は使えるのではないか、なによりP-1哨戒機の整備治具がそのまま使えますし、操縦資格も同じ。またタラップは特別な設計変更が不要ですし、既存の生産ラインをそのまま応用できる。

 P-3C哨戒機がP-1ともども下総航空基地では練習機として用いられていますが、今後のP-3C哨戒機の運用を考えれば、P-1Cというものを開発しておくならば輸送機のほかに練習機として使える、機体に実物のレーダ装置を組み込まずともASWシミュレータを搭載することで戦術航法士の訓練に応用できます。航続距離8000㎞、巡航速度マッハ0.75、性能はまずまず。

 ジブチ航空拠点を維持している海上自衛隊には日常的に物資輸送を行う必要があり、航続距離に余裕がある輸送機には一定の需要があるはずで、まずなによりP-1哨戒機の製造が継続されているのですから。そして防衛省は電子情報収集機などにP-1の派生型を開発する方針です、するとP-1Cという派生型が一つ増えてもいいのでは、と思うのですね。

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