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海上自衛隊舞鶴基地 桟橋一般公開①

2006-04-20 09:57:56 | 海上自衛隊 催事

舞鶴

 舞鶴とは鶴の舞うような独特の地形から名づけられた地名である。帝都防衛の要衝である横須賀軍港、瀬戸内海に面し防衛に適した一方で各種兵器開発の拠点としての呉軍港、支那方面や欧米列強との軍事的均衡から重要視された佐世保に引き続き、明治19年にロシアとの軍事的均衡を保つ目的で舞鶴軍港が整備された。

Img_9450  ロシアのシベリア鉄道建設が進む中、軍港整備は決定したものの、土地買収は地価高騰などで中々進まず、明治22年から実に12年間を要した。

 明治34年10月1日、舞鶴軍港はようやく開庁し、舞鶴の街路には戦艦三笠、戦艦初瀬、戦艦吾妻の名前が付けられ、これは今日の舞鶴市にも受け継がれている。

 初代舞鶴鎮守府司令官は当時の常備艦隊司令長官であった東郷平八郎中将が日高壮之丞中将に任を譲り着任し、横須賀、佐世保、呉鎮守府とおなじ規模の司令部要員を迎えて発足した。

Img_9170  日露戦争後、大正軍縮により舞鶴鎮守府は要港部に格下げとなったが、昭和14年に太平洋戦争を控え再び鎮守府化され、太平洋戦争敗戦により帝國海軍は解体されたものの、舞鶴の掃海作業は続けられ、その隷下に敦賀、伏木、七尾、新潟には掃海支部が置かれた。

 写真は舞鶴煉瓦博物館駐車場から撮影したもので、「はつしま」型掃海艇の「あわしま」(舞鶴地方隊第44掃海隊)、そしてその向うに第三護衛隊群旗艦の「はるな」が写っている。

Img_9225  海上自衛隊の地方隊は、昭和21年に朝鮮半島でコレラが流行した為、占領軍から密航者引渡しを命じられ、運輸省を通じて駆潜艇や哨戒艇38隻を譲渡され、ここからのちの形状警備隊、海上自衛隊の起源となった。最初の部隊は海上保安庁から移管された四隻の木造掃海艇であるが、これが今日の舞鶴地方隊に至った。

 写真は舞鶴地方隊の「あぶくま」型護衛艦「あぶくま」(舞鶴地方隊第24護衛隊)で、DE(小型護衛艦)ながらも満載排水量は2900㌧に達し、対空レーダーは「はつゆき」型護衛艦とおなじOPS-14、対艦ミサイルや対潜ロケットを搭載したもので、海上自衛隊が最後に建造したDEクラスでもある。

Img_9227  舞鶴基地では現在、護衛艦隊集合訓練が実施されており、この週末に一般公開が予定されている為このための情報を幾つか掲載したい。

 舞鶴市は煉瓦の街と言われるだけあって、煉瓦を辿って海に向かうと舞鶴東港にたどり着く。しかし、最短距離はフェリーターミナルでだいたいここには何もいないので、ちょっと度肝を抜かれる事があるが、煉瓦博物館を通り舞鶴市役所前を通過すると写真のような隘路の向こう側に海上自衛隊艦艇が並んでいる様子がみえる。此処が舞鶴基地である。西舞鶴駅と6㌔離れた東舞鶴駅があるが、海上自衛隊が使用しているのは東港である。しかし、東港に入港できない艦艇は西港に入港している。

 今回はこれまで、次回は艦艇を中心に掲載したい。

HARUNA

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