■正月飾りの彦根城探訪記
彦根城を探訪しますと既に城郭は正月飾りを並べ年末年始の師走風情を醸していました。
滋賀へ彦根へ。年末という事で彦根城へ行って参りました。京都が高校生駅伝で混雑しているとともに最近の高校生駅伝が支援の第7普通科連隊参加が少ないから、というわけではないのですけれども。若干雪景色を期待したものの素晴らしい快晴に恵まれている。
佐和口多聞櫓という、彦根駅から彦根城に向かいますと掘割の向こうに、ここから城郭への山は広がるのですが、入り口に当るところに大きな櫓がありまして、その向こうに複合式望楼型 三重三階天守閣がみえてくるという、これからの登城の気分を盛り上げてくれる。
琵琶湖畔の彦根城、散策には最適だ、大名屋敷こそ残念な事に廃藩置県後に廃城となった際の混乱で失われてしまったけれども、天守閣と複数の櫓が健在であり、なによりも石垣と掘割が巡らせる情景は、そうどれだけ歩きまわても飽きる事はない、美しい城郭なのだ。
東海道線彦根駅、新快速が停車すると共に駅舎には化粧煉瓦が施され、そして近江鉄道と日日本旅客鉄道の駅舎を一歩街へ歩み進めますと、迎えるのは井伊直政の騎馬像そのひと。そう、ここは井伊さんの彦根、というべきなのでしょうか、街とお城が愛されていて。
城郭は駅から、福山城と三原城のようなお城が駅の真横のつもりでアーケードを進んでいますと案外歩く、しかし、アーケードのその先に天守閣が見えまして、もう少しでお城なのだなあ、と思うと意外に近いのかもしれません。しかし城内は活気にあふれている。
連郭式平山城の彦根城は井伊直継が西暦1622年、元和8年に築城した城郭なのですけれども、城内が活気にあふれているというのは、観光客が多い、ひこにゃんがいる、いくつか理由があるのですけれども、もう一つ、城郭に高校や大学が置かれているということも。
現在もつかわれている城郭、といいますと持射浮かべるのは皇居、そしてこのほかにも静岡県庁が置かれる駿府城や福井県警本部の置かれる福井城というもの、新幹線駅として使われているような三原城のその一つなのでしょうが、学校が置かれている城郭が彦根で。
金亀山、彦根城の天守閣はこの山頂にあります。けれども山頂と仰々しい表現は言うものの、高低差は50mくらいといい、まあ要するに京都駅ビルの大階段ほどの高低差も無いわけです、ただしながら石階段を上ってゆく先、妙に高い様にも思えてくるのは不思議だ。
城郭は、井伊直政、彦根藩初代藩主が関ヶ原の戦いにおいて勲功を挙げ、しかし西軍島津義弘の撤退戦に際して正面突破を受けた、烏頭坂の戦いで井伊直政は重傷を負い、この勲功が関ヶ原に近い彦根の地、近江は湖南地方を中心に所領として徳川家康から与えられる。
上り難い城郭は防御を念頭に置いた、これは何しろ江戸時代があれ程に長く安定した時代が続くとは思われていませんでしたから、先ずは江戸の防御を、その為には東海道と北陸道の結節点に位置する彦根は戦略的に重要であるとして、頑強な城郭を造営することに。
天下普請という、幕府直轄の築城となりました彦根城は、要するに安易な城郭では困るとの幕府の決意とともに造営されたわけですから、この石階段が上り難いのも仕方がないのだよなあ、と納得し、こうして天秤櫓がみえるところまでのぼってきましたわけです。
天秤櫓、井伊年譜という歴史書によればこの櫓は今は無き、再建天守閣はあるけれども、長浜城から移築されたものといいまして、本丸南腰曲輪を防衛しています。二層二階の櫓は廊下橋という有事の際には落とされて障害を構成する構造で、その先に天守閣がある。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
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(第二北大路機関: http://harunakurama.blog10.fc2.com/記事補完-投稿応答-時事備忘録をあわせてお読みください)
彦根城を探訪しますと既に城郭は正月飾りを並べ年末年始の師走風情を醸していました。
滋賀へ彦根へ。年末という事で彦根城へ行って参りました。京都が高校生駅伝で混雑しているとともに最近の高校生駅伝が支援の第7普通科連隊参加が少ないから、というわけではないのですけれども。若干雪景色を期待したものの素晴らしい快晴に恵まれている。
佐和口多聞櫓という、彦根駅から彦根城に向かいますと掘割の向こうに、ここから城郭への山は広がるのですが、入り口に当るところに大きな櫓がありまして、その向こうに複合式望楼型 三重三階天守閣がみえてくるという、これからの登城の気分を盛り上げてくれる。
琵琶湖畔の彦根城、散策には最適だ、大名屋敷こそ残念な事に廃藩置県後に廃城となった際の混乱で失われてしまったけれども、天守閣と複数の櫓が健在であり、なによりも石垣と掘割が巡らせる情景は、そうどれだけ歩きまわても飽きる事はない、美しい城郭なのだ。
東海道線彦根駅、新快速が停車すると共に駅舎には化粧煉瓦が施され、そして近江鉄道と日日本旅客鉄道の駅舎を一歩街へ歩み進めますと、迎えるのは井伊直政の騎馬像そのひと。そう、ここは井伊さんの彦根、というべきなのでしょうか、街とお城が愛されていて。
城郭は駅から、福山城と三原城のようなお城が駅の真横のつもりでアーケードを進んでいますと案外歩く、しかし、アーケードのその先に天守閣が見えまして、もう少しでお城なのだなあ、と思うと意外に近いのかもしれません。しかし城内は活気にあふれている。
連郭式平山城の彦根城は井伊直継が西暦1622年、元和8年に築城した城郭なのですけれども、城内が活気にあふれているというのは、観光客が多い、ひこにゃんがいる、いくつか理由があるのですけれども、もう一つ、城郭に高校や大学が置かれているということも。
現在もつかわれている城郭、といいますと持射浮かべるのは皇居、そしてこのほかにも静岡県庁が置かれる駿府城や福井県警本部の置かれる福井城というもの、新幹線駅として使われているような三原城のその一つなのでしょうが、学校が置かれている城郭が彦根で。
金亀山、彦根城の天守閣はこの山頂にあります。けれども山頂と仰々しい表現は言うものの、高低差は50mくらいといい、まあ要するに京都駅ビルの大階段ほどの高低差も無いわけです、ただしながら石階段を上ってゆく先、妙に高い様にも思えてくるのは不思議だ。
城郭は、井伊直政、彦根藩初代藩主が関ヶ原の戦いにおいて勲功を挙げ、しかし西軍島津義弘の撤退戦に際して正面突破を受けた、烏頭坂の戦いで井伊直政は重傷を負い、この勲功が関ヶ原に近い彦根の地、近江は湖南地方を中心に所領として徳川家康から与えられる。
上り難い城郭は防御を念頭に置いた、これは何しろ江戸時代があれ程に長く安定した時代が続くとは思われていませんでしたから、先ずは江戸の防御を、その為には東海道と北陸道の結節点に位置する彦根は戦略的に重要であるとして、頑強な城郭を造営することに。
天下普請という、幕府直轄の築城となりました彦根城は、要するに安易な城郭では困るとの幕府の決意とともに造営されたわけですから、この石階段が上り難いのも仕方がないのだよなあ、と納得し、こうして天秤櫓がみえるところまでのぼってきましたわけです。
天秤櫓、井伊年譜という歴史書によればこの櫓は今は無き、再建天守閣はあるけれども、長浜城から移築されたものといいまして、本丸南腰曲輪を防衛しています。二層二階の櫓は廊下橋という有事の際には落とされて障害を構成する構造で、その先に天守閣がある。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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