先日テレビを見ていたら、温暖化防止のために日本がかつて(震災前)に国際的に公約した数値目標実現にむけての関係者によるイベントが取り上げられていた。クリーンエネルギーの実現がテーマなのだが、何となく違和感を感じた。
人は生きる上で、時に真実が必要ではなく、心の安定が必要なこともある。そういう場合にはフロイトの14の防衛機制が大変重要で大きな意味がある。例えば、辛い過去を背負い現実の中で生き抜くためには、時に過去を昇華したり合理化することは必要だと思う。
しかし、その過去の経験により、何かを学び何かを変えなければならない場合は、防衛機制による真実回避が致命的になると思う。私にとって、福島原発事故は、自分の生命の危機にまで及んだ深刻なものであった(東京に住んでいたので、例えば4号炉の被災状況がもっと酷ければ当然危なかった)。そんな危機感を感じたが、その危機感が無かったころに設定した数値目標で合理化するのはどうなのだろうかと?
さて、数値目標は考えてみれば自分の人生に多大な影響を与えた。合理的な経営の目標管理の手法からでているのだが、数値という極めて説得力のあるデータをつかっているので何となく合理的で説得力があるのだ。そして、サラリーマン時代も営業や、マーケティング、管理職などで駆使した。しかし、頼もしそうな数値目標、経験していくと、目的とどうリンクしているかが怪しいことが多い。
身近な例であるが、ホームページが出始めたころは、自分のページにどのくらい他人がアクセスするか興味をもった。一生懸命書いた内容がどのくらい読んでいただいたかが判らないと張り合いがないこともあった。それで、カウンターなどを設置し、今日は50人読んでいただいたかと喜んだりした。しかし、経験を積んでいくと、数値がちょっと変かなと思うようなこともあった。自分で自分のホームページにアクセスするたびにカウントがあがったり。
そのうち、IPアドレスを使って、何台のコンピュータ(スマホなども含む)がアクセスしたかとか、何ページ参照されたとかの、IPやPVといった、より厳密な数値がでてきて信用をましたりした。
しかし、分析ツールなどもでているので、興味をもってアクセスの内容をしらべてみると、GooglebotとかBingbotなどの検索エンジンがらみの調査ロボットのアクセスが非常に多いことが判ったりする。実際の読者でない、何らかの目的をもったコンピュータからのアクセスなのだ。
自分の事例を考えると、こんな内容で書いて申し訳なかったかと思うようなブログ記事が意外にも、訪問が多かったり(旬な言葉を使ったためか?)、反対に、一年に一度くらいの気づきをもとに書いた力作が惨めなアクセス数だったりする。技術的合理性をもつアクセス数というものも、それなりに大切だとは思うが、自分の抱く感情・直観のが真実で、時にかけがいのないものだと思うのである。
しかし、個人個人の防衛機制の使い方も注意すべきだと思うが、政治や集団の中での使い方も注意が必要だと思う。人の場合も防衛機制の使い方を誤ると真実からかけ離れとんでもないことになるが、これは集団でも同じだと思う。
U先生のテキストで教えられたことだが、まず、一次感情を正確に捉え、その中で適切な防衛機制を使う。これが重要だ。数値に振り回され、船頭多くしてではなく、数値目標で船山に登るではこまる。
時間と空間の旅⑥ 6/10