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縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

わびとさびが、人生を豊かにする。(私のストレスとは?② 2/10)

2017-04-20 | 第二章「五感と体感」

 年をとり、仕事の第一線から遠のき、だんだん身体が不自由になっていく。人生を再出発するのも困難になっていく(例えば私が小説家になることも(笑))。老年とはそんな時期である。しかし、最後の死を迎えるときに「自分の人生」に悔いはないと安らかに旅立つことができれば全て良しなのだろう。そんな、大切な時期なのだと思う。そして、エリクソンはこの時期を、知恵・自我統合性・絶望感の3つの面から捉えている。

 身の回りで、老年を送る先輩達はどのように過ごしているか?それも、この問題への一つのヒントになる。自分史を書いたりする。巡礼をする。自然に親しむ。旅行をする。宗教や哲学に興味をしめす。芸術に興味を示す。他にもいろいろあると思うが、私もこの2-3年を振り返ると、60歳を過ぎた多くの人と同じような模索をしていることに気づく。

 私の場合は、「生き甲斐の心理学」の論文を通して自分史を検討した。さらに縄文小説というかつては想像もしなかった暴挙?に出て、自分の宗教・哲学や成育史を縄文の世界に投影して推敲の中で統合を試みたようだ。

 さて、昨日某所で生き甲斐の心理学の勉強会に参加させていただいたが、その時、この知恵・自我統合性・絶望感の話題が出た。私にとって多くの気づきを得た貴重な時であったが、その一つは年老いてからの五感・体感の重要性であった。五感・体感と漠然と言うと分かりにくいが、一つの美意識に集約されるかもしれない。

 日本には昔から「わびさび」という言葉がある。私は長くこの言葉の本来の意味を考えていた。よくわからなかったからである。そして、昨年の夏に青森の津軽半島をドライブしたときに、その意味を実感したのだ。

 ちょうど、太宰治の「津軽」を読んでいて、その中で「古池や蛙飛び込む水の音」の説明にいたく共感した後だった。太宰治の「わびさび」感は、次の不思議な経験を鋭く説明してくれた。

 濃霧でほとんど前方が見えない中、恐怖心と戦い必死に絶壁を縫うの海岸道路を運転し、見えないので対向車の警笛を聞き分けるため耳を澄ましていたのだが、竜飛岬にやっと近づく時、鶯の声が聞こえた。そして、濃霧という困難の中で、私はまわりの命と鶯を通して統合されたように感動した。

 絶望とも言える状況の中で、ふとしたことで五感・体感を通して何かと統合される。

 これは、決して日本のオリジナルではないと思う。例えば旧約聖書のノアの箱舟で、放った鳩が陸地を見つけたのかオリーブの葉をくわえてくる場面がある。これなどは、「わびさび」といえるのではないだろうか。伝統とは意外に普遍的なものではないだろうか。

私のストレスとは?② 2/10

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