イキイキと生きる!

縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

感情受容の旅!受容性の育て方。3/4(受容⑨)

2010-07-26 | 第十章「今ここでの恩寵」
 ヤマユリを見ると、いつも父と最後の夏を過ごした夏休みを思い出す。もう今から20年近くになるが、大病を患ってその治療をし、仕事に戻る前に実家で家族で夏休みを過ごした(数か月後の秋には再発し急逝してしまう)。家族で海水浴に行ったのだが、その時に、父が岬の頂上に神社があるはずなので、一緒に登ろうと私を誘ってくれた。二人だけの時間は、意外とあるようで無く、強烈な思い出となった。

 ほんの30分位の行程であったが、私には理解しにくかった父の姿を垣間見た旅のようだった。草の生い茂る道を登り、瀬戸内海を見渡せるところで休みつつ、最後に頂上付近の荒れ果てた神社に到達した。そこで、二人で手を合わした。そこは、父が若いころ、出征する友達や家族が沢山お参りした地元では有名な神社だったそうだ。それが余りに荒れ果てていたので、父も悲しんでいた。父はたまたま不思議な縁で、兵役を免除されたが、友達の多くが戦争で亡くなったそうだ。

 父は大病を患っていたこともあり、ちょっとした勾配で息が切れ、休み休み登った。そんな時にヤマユリが咲いているのを私が見つけた。私は感激したのだが、父はそばによって覗いたが、何も言わなかった。それが自分の気になる違和感で、ヤマユリが何故か今でも気になる。父の思いは何だったのだろうか。

 30分の行程は、自分の感情と静かに向き合った貴重な時間であった。

 感情は自分の理想と現実のギャップから湧き起る。父に生き続けてもらいたいという理想とか、もっと外の話でもしてくれたらという自分の理想、これしきの坂を楽に登ってもらいたいという理想・・・様々な自分の隠れた理想。それが父との30分程度の行程の中で、感情(深い悲しみとか、期待感、・・・)という不思議なものを通してあぶり出されるのだ。

 本当の感情は、自分の様々な本音(こころ、身体、魂の領域からくる)を正直にあぶり出す。その中で、我と汝の対話が行われたりする。

 湧き起る感情には、正直なところ感じたくない感情もある。しかし、流れる感情の意味を考えることが、意外にも人生の宝(気づきへの先行情報)であることを識ると(生き甲斐の心理学のお陰である)、どんな感情でも恐れずにいられるようになってくる。自己嫌悪している自分、意外に女性的に錯乱している自分、男の嫉妬をしている自分、いろいろな姿が見えてくる。勿論、そんな自分が見えれば、客観的に解釈して、ベストな行動もとれやすい。

 世阿弥は、中世の能や芸術論での天才であるが、≪離見の見≫ということを言った。舞う自分をどこか、違う視点から客観的に自分が見ている。そんな感じなのだろうか。

 受容⑨(暮らしの中のカウンセラーの基本の基本 9/30)

人気blogランキングへ・・1クリックで燃えます!感謝しています!!! 



他人は他人、自分は自分ー受容性の育て方。2/4(受容⑧)

2010-07-25 | 第十章「今ここでの恩寵」
 毎日猛暑が続いている。その中で、昨日は近所で、5-6年前から継続している仲間と生き甲斐の心理学の勉強会を行った。カウンセリングの勉強会は、それだけでカウンセラーとしての受容、共感、純粋と一致を訓練する暖かい場(日常からかけ離れた旅みたい)であるが、昨晩は、私が受容性にちょっとこだわっていたこともあり、その面で、自分として新たに発見があった。

 受容性と共感というと、何か同じようなものという印象を持ってしまいがちだが、良く考えると、全く別の方向(ベクトル)を示す能力であるようだ。自分と他者との関係で、受容性は自他混合を許さず、自分は自分、他人は他人とし、異物感をそのまま≪ありのまま≫体感することがポイントとなる。この異物感を欺瞞的に無視するのは長い目でみて良くない。むしろ、異物感をしっかり体感することも、時として必要なのだろう。

 もう一つのポイントは、自分は自分、他人は他人である原因を、人間の構成要素、身体、こころ、魂で分類して考えることも重要だ。特に、生育史が違うということは意外と忘れがちであり、意識化すると良いことも多い。

 昔、外資系の会社に勤めていたとき、海外の同僚の個性の豊かさに関心し、何で日本人は妙に似たもの同志なんだろうと思ったことがあった。その後、≪生き甲斐の心理学≫を学んでいくなかで、日本人も実は外国人並みに違っているのが実際だと気がついた。同じように見えたのは、文化の問題(例えば甘えの構造)による錯覚であり、実際は違うと思う。

 違いを意識化し、しかも、それを一旦受け止める。そこがカウンセリングでも、日常の対人関係でも重要なのだ。自他混合は不思議なこころの仕組みなのだろうが、長いお付き合いや大切なお付き合いの場合は、長い目で良くないと思う。

 カウンセラーの修行で大切にされる、エンカウンターは、①自己覚知 ②感情表現 ③自己主張 ④他者受容=傾聴訓練 ⑤信頼感 ⑥役割遂行を大切にするが、受容性の訓練もリストを見ると沢山はいっているなと、昨日は妙に実感した。

受容⑧(暮らしの中のカウンセラーの基本の基本 8/30)

人気blogランキングへ・・1クリックで燃えます!感謝しています!!! 



旅に出よう!ー受容性の育て方。1/4(受容⑦)

2010-07-24 | 第十章「今ここでの恩寵」
 カウンセリングや傾聴で出てくる、受容性は、≪ありのまま≫を大切にし、それを一旦認める(賛同するのではなく)ことをいいます。他人は他人、自分は自分その当たり前のところに戻り、そこから暖かく認めるだけですが、意外と効果があるものです。自分の生育史をひも解いてみれば、人にお説教されたり、人間関係のどろどろとしたしがらみの憂欝は沢山ありますが、それが何かを生み出したかといえば、どうも真に解決に繋がることのない、無駄なことが多かったようです。その反対に、ちょっと一歩離れたところで、≪ありのまま≫の自分を淡々受け容れ、すこし暖かくしてもらった心地よさは忘れがたいものです。今日はワンショット的なことより、ある時期のことを考えます。

 大学生になったころ、夏休みに、広島の田舎で家族から離れ、祖父母の葡萄畑の手伝いをしたこと。就職してしばらくし、単身赴任で関西で暮らしたことは、居場所をちょっと変えただけの話ですが、それだけで、新しい出会いがあったりで、気分が弾むものでした。

 誰からも、変に干渉されることなく、ありのままでいられる幸せというのでしょうか。その地で、触れあうちょっとした人間関係。特に説教されるのでもなく、そして、何気ない日常の挨拶の中に、喜びを見出したりします。

 そのちょっとした感覚が受容性のポイントかもしれません。

 受容性を高めるために、あと3回ほど、思索の旅にでてみようと思います。

受容⑦(暮らしの中のカウンセラーの基本の基本 7/30)

人気blogランキングへ・・1クリックで燃えます!感謝しています!!! 



信じて観える、ストレスの意味 3/3 (受容⑥)

2010-07-23 | 第十章「今ここでの恩寵」
  認知症のご老人に頻繁に接していた時、その方の何十年か前のよき時代に、あたかも今生きているような言動に合うことはしょっちゅうであった。そんなこともあり、私がもしも認知症になったら、どの時代に生きるのだろうかと、時どき考える。

 青年期の一時かもしれない。何かの反動で必死に卒論の勉強していたころだろうか。会社の仕事にも自信をもち、結婚したころも候補だ。壮年期の仕事に脂ののった時期。マーケティングの仕事をやっていたころだろうか。仕事を信じ、仕事に生きていたころである。

 ただ、良き時代と思っていたころでも、本当に何を信じていたかを後から考えると、意外と浅かったりする。人から言われたことを簡単に信じてしまったりする。そして、自己否定や他者否定を引き起こす傾向に無関心で、それがブレを産み、時が経つと良き時代は終わっている。

 やはり、本当の意味で良き時代(世間的な成功とは違う)に生きるとは、自己実現のことを考えたり、長年の歴史の中で揉まれた伝統宗教や考え抜かれた思想を勉強することが大切なのではないか。それが、人生で何があっても、ストレスでさえ意味を持つ恩寵の世界に通じると思う。

 因みに、自己実現のことを考えるとは。生き甲斐の心理学を学んで知ったのだが。①私は何のために生きているのか?②生き甲斐は何か?③自分の身体、心(生育史)、魂を大切にしているか?以上3点なのである。回答のない、オープンな質問だが非常に良くできていると思う。考えることが重要なようだ。

受容⑥(暮らしの中のカウンセラーの基本の基本 6/30)

人気blogランキングへ・・1クリックで燃えます!感謝しています!!! 


信じて観える、ストレスの意味 2/3 (受容⑤)

2010-07-22 | 第十章「今ここでの恩寵」
 同じ大きなストレスでも、その中に神仏の愛を感じ、イキイキと前向きに生きる人もいる。強靭な精神力で戦う人もいる。もちろん、ストレスで現実に適応不能となるケースもある。

 私の場合は、1999年に四ツ谷の教会で不思議な体験をしてから、神の愛を信じるようになったが、その後2-3年して大きな問題にぶつかった。その時には、人間本当にいろいろな意味で紙一重なのだと実感したものだ。しかし、様々な形で支えられ何とか乗り切ったが、今思うと、その時のストレスは、言わば神仏の愛を感じながら、耐え抜いたのだと思う。

 もし、1999年に四ツ谷の教会での体験がなく、神の愛を信じるに至らなければ、恐らく、精神力で戦うか、ストレスで適応不能に陥るかだっただろうが、その問題解決の結果も含め、強くない私は悪い方に流れたと思う。

 日本の歴史を辿れば神仏の愛を信じ、ストレスをものともせず活動した人も多いと思う。世界に目を広げれれば、いくらでも事例があると思う。その中で思い出すのは、日本にも滞在したことのあった、コルベ神父のことである。コルベ神父はアウシュビッツで妻帯者の身代わりとなり、飢餓室に送られ苦しんで帰天されたが、飢餓室の中で讃美歌を歌い、そして同室の人を慰めたりしている。そこは苦しみの場であっても、地獄ではなかったかのようだ。

 ストレスは理想と現実のギャップから生まれる。その中で、人は理想と現実のギャップを変えようと努力したり、解釈を変えたりする努力を払う。ただ、一般的にはストレスそのものに意味を見出そうとはしない。しかし神の愛を信じる人の中には、ストレスそのものの中に意味を見出す人がいる。

受容⑤(暮らしの中のカウンセラーの基本の基本 5/30)

人気blogランキングへ・・1クリックで燃えます!感謝しています!!!