イキイキと生きる!

縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

信じて観える、ストレスの意味 2/3 (受容⑤)

2010-07-22 | 第十章「今ここでの恩寵」
 同じ大きなストレスでも、その中に神仏の愛を感じ、イキイキと前向きに生きる人もいる。強靭な精神力で戦う人もいる。もちろん、ストレスで現実に適応不能となるケースもある。

 私の場合は、1999年に四ツ谷の教会で不思議な体験をしてから、神の愛を信じるようになったが、その後2-3年して大きな問題にぶつかった。その時には、人間本当にいろいろな意味で紙一重なのだと実感したものだ。しかし、様々な形で支えられ何とか乗り切ったが、今思うと、その時のストレスは、言わば神仏の愛を感じながら、耐え抜いたのだと思う。

 もし、1999年に四ツ谷の教会での体験がなく、神の愛を信じるに至らなければ、恐らく、精神力で戦うか、ストレスで適応不能に陥るかだっただろうが、その問題解決の結果も含め、強くない私は悪い方に流れたと思う。

 日本の歴史を辿れば神仏の愛を信じ、ストレスをものともせず活動した人も多いと思う。世界に目を広げれれば、いくらでも事例があると思う。その中で思い出すのは、日本にも滞在したことのあった、コルベ神父のことである。コルベ神父はアウシュビッツで妻帯者の身代わりとなり、飢餓室に送られ苦しんで帰天されたが、飢餓室の中で讃美歌を歌い、そして同室の人を慰めたりしている。そこは苦しみの場であっても、地獄ではなかったかのようだ。

 ストレスは理想と現実のギャップから生まれる。その中で、人は理想と現実のギャップを変えようと努力したり、解釈を変えたりする努力を払う。ただ、一般的にはストレスそのものに意味を見出そうとはしない。しかし神の愛を信じる人の中には、ストレスそのものの中に意味を見出す人がいる。

受容⑤(暮らしの中のカウンセラーの基本の基本 5/30)

人気blogランキングへ・・1クリックで燃えます!感謝しています!!!