イキイキと生きる!

縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

信じることと錯乱すること・・・(月を解釈する 4/10)

2016-07-16 | 旅・雑記帳

 「安芸の宮島に行くならゆっくりと一日かけて見物するのが良い」

 そんな話を聴いて、もう3年前になるが友人と午前から午後にかけてほぼ一日宮島を体験した。何故一日かというと、厳島神社の干潮と満潮をのんびり体験することを薦められたからだ。月の影響で干潮があるのは知っていても、一日に二回干満があることや大潮があることなどはあやふやな人も多いだろう。月の重力とケプラー力の関係から、月の方向と180度の方向が満潮となり、90度と270度の向きのときに干潮となるからである。また、太陽と月と地球が一直線になると重力の影響で大潮が起る。

 写真は干潮の時の有名な厳島神社の鳥居。干潮の時に歩いて近くまで行ったことは良い経験であった。

 私はどうもせっかちで、のんびりと厳島神社に一日いるのはもったいない気がして、その日は干潮の厳島神社を見た後、弥山(みせん)にケーブルカーで登り、観光を兼ねながら歩いて下山した。弥山は山の頂上付近は巨大な不思議な岩(ドルメンか?)があり、縄文時代も信仰の対象ではなかったかなど、いろいろ考えさせられた。しかし、のんびりと海を一日見るということも後で思えば良い経験になったかもしれない。

 弥山登山のあとは、麓で再度厳島神社にもう一度寄った。すでに満ちていて、何とも言えない風情。海を大切にしていた祖先の想いが伝わってくるようであった。

 さて、干満は月の重力に関係しているが、それがどのように起き、どのような法則に支配されているかは、多分万有引力の法則等がわかるまで科学的には理解できなかったのだろう。アイヌの伝説のように巨大な怪魚がいて、息を吸ったり吐いたりするのが干潮だというように考えていた時代もあっただろう。

 話は変わるが明治維新による変化の中で、後で考えると前のが良かったというような変化もあった。廃藩置県は間違いで廃県置藩すべきだというような話をする人もいて楽しくなる思考実験だが、私は太陽暦を明治6年に制定しなかったらどうかなと妄想した。もちろん世界標準という良い面はあるのだろうが、悪い面も大きい。私は古来の自然への日本的感受性が随分失われたのではと想像している(自分がそうだから)。従来は太陰太陽暦で閏月など面倒なことはあったが、月をベースにした太陰暦(一日が新月、15日が満月、30日は晦日)であり非常に便利だったのではと思う。さらに冬至を起点にした24節気は季節を五感に訴えた表現にした太陽暦の注のようで、日々の生活の仕方に直結していただろうと思う。

 また、太陰暦であると、1日や30日は月が見えないが、大潮であることが分かり(15日も大潮)、上弦や下弦の時が小潮であることも連動して実感しただろう。海や川との関わりを強くもった人にはよかったろう。

 実務的なところとは別に、暦をとおしこの世の中が神秘的な法則に統御されていることを実感することは、こころの健康から見ても良いことだと思う。生活の中で統御感を持ちやすいからだ。暦は宗教を信じる人も、その中から恩寵等を感じると思うし、宗教はちょっとだが科学を愛好する方も万有引力の法則を信じていらっしゃるわけであり、やはり心は落ち着くのだろう。

 さて、世の中には信じていたのに裏切られるような時がある。突然津波が打ち寄せて来たり、突然に日食が起ったり、自然現象だけでなく人間の間ではたくさんありそうだ。統御感は錯乱と隣り合わせ。生き甲斐の心理学を学ぶと分かる知識だが、そういう時は神も仏もないという感じで大混乱する。

 そうした、錯乱の時は何かと考えると、ネガティブなことも確かにあるものの、今まで解釈してきた方法の限界を打ち破り、再構築する可能性も暗示しているようにも考えられないだろうか。実際に、ニュートン力学はアインシュタイン等によって大きく再構築され、さらに今ではひも理論などで再構築されようとしている(私は内容はついていけないが言葉だけはなぜか知っている)。また、縄文時代なら突然の日食も新月と関係していると見抜きやや心を安らげる人もあったかもしれない。宗教の世界でも、その中で神義論が発達したりする。

 話は大きくなってしまったが、個人的な錯乱の経験も、それから立ち直った経験(小さなこともふくめ)とともに生きるノウハウになっていると思う。

月を解釈する 4/10

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人は見かけによらぬもの・・・ (月を解釈する 3/10)

2016-07-15 | 旅・雑記帳

 縄文時代に興味をもってくると、縄文の人々が見た月とか太陽、あるいは動物や植物を意識するようになってくる。それも、五感・体感を重視する中でだ。タヌキを食べるとどんな味か・・・などと最近妄想するとなるとかなり危ないが(私も最近・・・)。さらに、身近な道具や器具をはじめ森羅万象(先日は選挙だったが)に不思議な興味も。

 月については、この数年興味を持続している。そして、いろいろなことを発見する。恥ずかしながら、20年前のサラリーマン生活では、世間並みに満月などは意識したことがあるが、上弦の月とは何か、真冬の満月は真上近くに見えることがあるが何故か、月の形や出る時間のあらましなどは、はっきり知らず、また知ろうともしなかった。

 縄文時代のレベルとしてはかなり危ない。ポンと縄文時代にタイムスリップしたら知識面で生き抜けるだろうか。生活に必要な栗や雑穀、漆などの栽培の時期などを簡単に間違えてしまったり、丸木舟の航行も危険だったかもしれない。

 メソポタミアでは今から7000年~6000年前には太陽が一年に動く角度が1度であることを知っていたという。そしてエジプトでは6000年前には365日の太陽暦を使っていたという。日本の縄文時代は文字文化がなかったので不明であるが、縄文土器などの図像を解析すると太陰暦の知識は充分あったようだ(縄文中期には少なくとも)。明け方と夕暮れ時の月の形と位置。一日50分ずつずれていくので、それを軌跡で捉えると、左巻きの蕨手状になったり、右巻きの蕨手状になったりするが、それが土器に見事に描かれている(中部の縄文中期など)。

 さて、月の見かけについて知っていたとしても、その背景の原理的な面は、もっと意識しないとできないだろう。地球の自転が一日360度であるということは何となく誰でも想像するが、実際は地球も太陽の周りをまわっているため、一日の中心を昼の正午とすれば、それに合わせるためには自転を一日約361度にしなくてはならない。見かけと背後の真実。このあたりの微妙な差は重要だと思う。

 自分とは何か?生き甲斐の心理学では、こころの健康に大事な3つの問いかけの一つとして大事にしているが、自分という身近な存在ですら何か361度の世界のようだと思う。さらに他者となれば、生き甲斐の心理学を学んでわかることだが生育史の違う他者は実に分らない。適当な言葉で恐縮だが、1度の差というより数百度も違い900度くらい??の世界のようだ。しかし、自戒を込めて思うが、世の中では360度の世界のようにまことしやかに言う人も多い。それも分らないことではないが。

 ただ、900度とかの世界であっても、なにかが伝わるということがあるようだ。月を見て、単なる石の塊だと思う人もいるが、生命体をどこかに感じて美しいと思ったりする人もいる。人でも同じであり、感情では避けたいところを、理性面で愛で乗り越えようとする人もいる。このあたりは一つの信じて観える世界であり、生きる上で大事にしたほうが良いように私は思う。

月を解釈する 3/10

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得体のしれない何か、心の闇をどうするか?(月を解釈する 2/10)

2016-07-14 | 第一章「意識と知覚」

  恐怖心というのは感情の中でも原初感情の一つともいわれる。そんな感情をはっきりと認識したのが前回の青森旅行であった。津軽半島を最北の竜飛岬までドライブしたのだが、日本海を見下ろす断崖をも通る道で濃霧に会ったのだ。30分くらいそんなドライブをしてたどり着いた竜飛岬も天候が悪かったこともあったが、何かおどろおどろしかった。
  

 そんな記憶もだんだん薄れてきたころ。今回の紀行文をフェイスブック等に載せたのだが、ある知人から、「恐山にいかずして・・・」と叱られてしまった。確かに今回の4泊5日の旅では行けないところも多かった。そして、神社仏閣といった聖地にも、縄文の聖地はあっても岩木山神社を除いて行けなかったのは片手落ちだったかもしれない。恐怖心は決してネガティブだけではない、私は、錯乱から統御感に導いたりする意味のある感情だと思っている。
 
 さて、今朝は月に関係深い暦(カレンダー)について本を読んだり調べたりしていた。カレンダーという言葉も、もともとは新月のあとで「月が出たぞ」caloというラテン語からきているそうだ。ご存知の通り、月は新月ー>満月ー>新月を約30日かけて一巡する。
 
 日本で暦というと、日本書紀で半島から輸入した話など最近のことが話題になりがちだが、縄文時代にも私はカレンダーは在ったと思う。あれだけの定住社会、縄文文化をもちながらカレンダーがなかったとは思えないからだ。約6000年前に人類は初めて文字を使い始めるが、そのシュメール人もカレンダー的なものをもっていた。同時代の縄文時代の祖先も持っていておかしくない。ストーンサークルが縄文時代の遺跡としてのこされているが、そのいくつかは二至二分を意識して場所を選んでいたり印を付けていたりしているようだ。農耕にはカレンダーはとても重要だが、縄文時代も栽培文化をもっており何らかのカレンダーがなければ生活も厳しいと考えられる。

 もう一つ、月は暗闇と仲が良い感じだが、縄文土器の中に釣手土器・香炉型土器というものがある。実際に火がともされなかったケースもあるようだが、形は明らかに火を意識している土器だ。縄文中期の香炉型土器で、表を見ると可愛い女性見え、裏からみると何か蛇体のようなおどろおどろしい化け物に見える。これは研究者によると、冥界分離神話と関係しているとされている。有名なイザナミが神様をたくさん産んだあとに、火の神のカグツキを産んだために焼け死に冥界に行く。それを悲しんだ夫のイザナギが後をおい救い出そうとするが上手くいかず、逆に黄泉の国の住人となって恐ろしい姿で、逃げるイザナギを追いかけるが黄泉平坂で大きな岩で封印されてしまうという話だ。

 日常の中で、心の暗闇・錯乱に遭遇することは、大なり小なりあることだと思う。そんな時、先人がカレンダーを作ったり、冥界分離神話をつくったりし力強く生き抜いてきたことを想うと、元気になれる。

月を解釈する 2/10

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季節を想ったり、月を想ったり (月を解釈する 1/10)

2016-07-13 | 第三章「無意識の世界」

 エアコンもなく、電灯も今のように発達していなかった若いころは、季節感も強烈にあり、太陽や月、星ももっと身近にあったように思う。ところが最近忙しい日々を送っていたりすると、季節感が薄らいでいく。今が小暑で写真のハスなどが綺麗だということも、意識しないと通り過ぎてしまう。

 さて、今月の末に勉強会を計画していて、テーマが月であることもあり。今朝久しぶりに月に関する資料を本だなからひっぱり出して眺めたり、季節について考えたりした。天体として不思議な動きをする月。それを人はどのように科学的に解釈してきたか。あるいは、月は美の象徴でもあるかもしれない。文芸や美術、音楽の対象として多くの芸術家が月をとりあげている。

 その中の一つ、今日気になった持統天皇の挽歌がある。夫の天武天皇への挽歌だが、政治家としてもスーパーだった持統天皇は次の歌をどのような想いで歌ったのだろう。

 向(き)南(た)山に たなびく雲の 青雲の 星離(さか)りゆき 月も離(さか)りて  (佐佐木信綱 新訓万葉集)

 向南山を北山と読ませるあたり、持統天皇の頭脳に驚嘆するが、これは潜在的に何を意味しているのだろうかなど考えるとそれこそ一日でも妄想に浸れる。北は天智天皇の山科陵と考えたり、南?に向かう雲(天武天皇)は持統天皇との精神的決別を意味しているのかな・・・などと考えたり、星は子供の皇子を意味しているのかなと考えたりも。あるいは、壬申の乱で天武天皇に賭けた持統天皇が、天武天皇と共に北(天智天皇を暗喩)から脱出した決断の時の経験を天武天皇の死に掛けているのかなど。

 本人しかわからないのだが、実に多重的な歌のように思えてならない。人の心は神秘的で美しくもある。

 そして、蛇足ながら、季節や月を想うのは心の健康にも関係していそうだ。

月を解釈する 1/10

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縄文文化と参議員選挙!(明るい解釈は何故いいか 10/10)

2016-07-11 | 旅・雑記帳

 参議院選挙が終了した。私も昨晩はいつもは殆ど見ないテレビを深夜まで見てしまった。選挙の結果やマスコミの対応など思うところはいろいろだが、今日は、その中で気になった一人区の与党と野党の勝ち負けの地図。ご覧の方も多いと思うが、私はそれを見つつ東日本が野党、西日本が与党という大まかではあるが勝ち負けを縄文時代で栄え、弥生文化が浸透してきても遅くまで縄文文化であった東日本と弥生文化を簡単に受容した西日本のことを想った。この図式は、2300年くらい前までの縄文時代なのだが、壬申の乱、関ケ原の戦い、明治維新などの日本の内戦というか混乱での図式も奇妙に一致している。

 21世紀になっても、数千年の日本の歴史の影響は影を落としているようである。

 私は、父方が関西系、母方が関東系なのでどちらが良いとかは決めかねるが(また、関西も関東にも住んだ経験もある)、このところ縄文時代を勉強している関係からか東日本びいきになってきている。そして、何となく東日本に首都があった江戸時代や鎌倉時代に憧れてしまう。

 まあ、今日は変わったテーマについて思索したが、なにかに固執しイライラしているとき、ちょっと視点を変えたりして俯瞰すると楽になることがある。そんな知恵は必要かもしれない。

明るい解釈は何故いいか 10/10

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