昨夜から武谷三男の「哲学はいかにして有効さをとり戻しうるか」をメモを取りながら読み始めた。まだ前半も読み終えていないのだが、彼は理論が危険を冒すことによって鍛えられるということを強調している。
そこには哲学者が危険を冒さないでそのためにいつまで経っても科学を進めるのに役に立たないことに苛立ちがある。
他方、雑誌「数学教室」のシリーズ「いまこそ遠山啓を語る」では7月号に井上正允さんが教育学者から聞いた話として
遠山が戦後の「生活単元学習」を激しく批判し、居並ぶ教育学者を前に「抽象的な教育論ではなく、具体的な教科について語れ」と喝破したとき、教育学者は誰一人として反論ができなかった
ということを書いている。これがいつのことだったかはわからないが、戦後まもなくのことであろう。
これは武谷のエッセイとはまったく別のコンテキストであるが、発想にはいうまでもなく並行性が感じられる。
哲学や方法論の有効性をあまり強調すると有効性だけがとりえだと主張するのは学問の本質から外れるとの批判 (広重の武谷三段階論批判のように) が出るが、抽象的な議論に終始してまったく役立たない教育学に愛想をつかした、遠山さんの苛立ちは分かる。
遠山は1909年生まれで、武谷は1911年の生まれである。二人とも学校嫌いだった。それで二人ともほとんど独学的である。武谷の方は生涯を通じて教育に違和感をもったが、遠山は逆に教育に関心をもった。だが、それも学校教育に肩入れをするというよりも独自の塾教育というか、独自の教育を目指した。