「私は暇か」というのが自問である。知人に水曜日の午後のテニスに誘われた。この人がいつも水曜日の午後にテニスに行っているのだ。ところが、私はそんなに暇ではないのである。そこが他の人から見たら、とても不思議に思えるところであろう。
「いつも何をしているのですか」と聞かれた。それでエッセイを書いているのですと答えておいたが、エッセイを書くのにそんなに時間がかかるとは普通の人には思えないだろう。数学エッセイと「数学」という形容詞をつけるべきだったろうが、どうも「数学」という形容詞をつけると知人の体が引けると思ったので、「数学」という形容詞はつけなかった。
このところは二項定理についてのエッセイを書いている。というと数学とか物理の教育や研究をやっている人にもそんなことが題材になるのか不思議に思うだろう。だが、なるのである。もちろん、私の書いてるようなエッセイはあまり必要のない人が大部分だろう。だが、そういう人にもなんらかの学ぶことがあるようなものをと思って書いている。
これは趣味なので、あまり人に勧められないことである。だが、高校数学の範囲でもいろいろのことがある。現在高校で教えている人はなかなか時間の暇がなくて考えてみたくても考えられないというのが、現状だろう。
書籍には紙数の制限があり、なんでもあまり詳しく書くことはできない。それで、いろいろ教材研究をしている人でも本にするときにはその要点しか書くことができない。私のエッセイはだがそういう制限をあまり受けないで書いている。そこが本を書く人が必然的に受ける制限とは違うのだろう。
このごろはしかし、WEB上でいろいろ書いている人はいるので、そういう紙数の制約はなくなってきている。それで、冗長を厭わずにいろいろな説明を書く人が出てきているのは喜ばしい。残念ながら、私はWEB上に発表する場所をもっていない。将来的にはなんとかしたいのだが、忙しくてWEB製作にとりかかれない。
「いつも何をしているのですか」と聞かれた。それでエッセイを書いているのですと答えておいたが、エッセイを書くのにそんなに時間がかかるとは普通の人には思えないだろう。数学エッセイと「数学」という形容詞をつけるべきだったろうが、どうも「数学」という形容詞をつけると知人の体が引けると思ったので、「数学」という形容詞はつけなかった。
このところは二項定理についてのエッセイを書いている。というと数学とか物理の教育や研究をやっている人にもそんなことが題材になるのか不思議に思うだろう。だが、なるのである。もちろん、私の書いてるようなエッセイはあまり必要のない人が大部分だろう。だが、そういう人にもなんらかの学ぶことがあるようなものをと思って書いている。
これは趣味なので、あまり人に勧められないことである。だが、高校数学の範囲でもいろいろのことがある。現在高校で教えている人はなかなか時間の暇がなくて考えてみたくても考えられないというのが、現状だろう。
書籍には紙数の制限があり、なんでもあまり詳しく書くことはできない。それで、いろいろ教材研究をしている人でも本にするときにはその要点しか書くことができない。私のエッセイはだがそういう制限をあまり受けないで書いている。そこが本を書く人が必然的に受ける制限とは違うのだろう。
このごろはしかし、WEB上でいろいろ書いている人はいるので、そういう紙数の制約はなくなってきている。それで、冗長を厭わずにいろいろな説明を書く人が出てきているのは喜ばしい。残念ながら、私はWEB上に発表する場所をもっていない。将来的にはなんとかしたいのだが、忙しくてWEB製作にとりかかれない。