老眼となっているので、辞書の小さな字は読むのがつらい。それでも大学を退職してから、特に最近はいろいろな辞書を引くことが多くなった。
ドイツ語のクラスで一緒のK夫人などは電子辞書を愛用されており、冊子の辞書を使っているのは私と私よりも1歳上のクラスリーダーのOさんくらいである。一番年長の医師の I さんなどもはじめは冊子の辞書をもって来られていたが、いまでは電子辞書になっている。
そういう事情を愚痴るともなく妻に話したら、電子辞書を買ったらいいではないかという。そしてある電気店に甥が勤めているOさんに電話をかけてくれて、電子辞書のカタログをもらったが、まだ購入するかどうかを決めかねている。
それはともかく、盛んに辞書を引くことになったのはいいことなのだろうか。広辞苑などももっていはいるものの、大学に在職中はほとんどその辞書を引いたことなどなかったが、最近はカタカナ外国語を調べるのに重宝をしている。大抵このカタカナ外国語の綴りとかを調べたいときに広辞苑を引くと出ているし、またその説明もある。
広辞苑は辞典とはいうもののある種の百科事典の趣がある。昨日書いた「もがりぶえ」なども広辞苑でその意味を知った言葉である。
いつかも書いたが、地球物理学者だった、竹内均先生が東京大学を退職したときに、辞書とか百科事典とかの類を除いて専門の書籍はすべて後輩の研究者にゆづって、雑誌「ニュートン」の編集長として科学の普及啓蒙に尽力されたというのは有名な話である。
竹内さんの真似はできないが、その万分の一でもと思って日夜励んではいるが、その意図を理解してくれる人が本当にいるのだろうかと思っている。だが、人生なんてそんなものだから、別に落胆しているわけではない。