岐阜大学工学部の部長とか岐阜高等工業専門学校の校長を務められた脇田 仁先生は世間的にあまりよく知られた方ではないが、私が数十年前に講義を聞いた先生の一人である。
大学3年か4年のときの物理数学の講師が脇田先生であった。それ以前にすでに物理数学の講義を1年にわたって他の先生から聞いていたから4年生の前期のことだったのだろう。
先生から学んだ内容は複素関数論と変分学だったと思う。変分学は物理学科ではあまり学ぶ機会はなく解析力学の一部として学ぶのが普通であろうか。
脇田さんは東京大学理学部物理を卒業された方だったと思うが、広島県三原市のご出身であった。彼のお兄さんから中学校で数学か理科を学んだ同級の N 君が「理論物理を専攻したら職がないから困るよ」と、お兄さんが N 君に警告をされていたと聞いた。
脇田さんはその当時竹原市にあった H 大学付属の理論物理学研究所の助教授であった。そのころ理学部物理学科の先生が3人も同時に定年退官されたので、H 大学の物理のスタッフが手薄であった。その穴埋めに非常勤講師として教えに来られていた先生の一人が脇田先生であった。
脇田さんは東京大学理学部の自治会の委員長を務められたとかで、大学卒業後に就職口がしばらく大学になかったと聞いている。それでもその後何とかして理論物理学研究所に職を得られ、助手、助教授として勤められていたころであった。
昼食後に理学部の裏庭を散歩されているときに先生とすこし話をしたことがあるが、理学部自治会の委員長を務められた方だとはついぞ思い及ばなかった。
なんの話をしたのか覚えていないのだが、多分その頃に私たちが組織していた物理学科の学生のための組織の話をしたのだろう。
教養部の数学の先生であった、佐々木右左先生から「脇田さんが最近ヒルベルト空間の研究で学位をとった」と聞いたと思うので、そのころ学位をとられたのだろうと推測する。この佐々木先生もこの少し前に数学の学位をとられていたと思う。40歳半ばで学位をとられれば、そのころは立派な学者であった。
変分学はそれが微分学とどう違うかと戸惑うこともあったが、それほど難しいとは思わなかった。もっとも実際に変分学がいまでも身についているかどうかはあやしい。
そのうちに理論物理学研究所に勤められていた若い先生方が理論物理学研究所から別のところに移り始めた。池田峰夫先生は H 大学工学部の応用数学の教授に、脇田先生は岐阜大学工学部の教授になられた。これは当分の間、理論物理学研究所での昇格ができそうになかったためであろう。池田峰夫先生はその後山口昌哉先生の後任として京都大学工学部の応用数学の教授に転任されて研究に励まれていたが、60歳直前に病気で亡くなられた。
脇田さんからは人生について何か言われるというほどの接触もなく、私はほとんど影響を受けなかったが、池田さんからは少なからず影響を受けた。それはまた別の機会があれば述べたい。
いずれにしてももう半世紀も前の昔のことである。
もう書くことがなくなってくる。いや、そうではなくて自分の感性がマヒしてくるのではないのだろうか。はじめころはなんでも新しく感じてそれをただブログに書き留めていたら、ブログを書くことができた。
ところがもう書くことがないのか、それとも自分の感性が乾ききってしまったのか。私は普通の人よりも好奇心に富んでいると思っていたのだが、どうもそうとも言えなくなっている。
このブログにはもちろん自分の考えたことの反応が反映しているが、それとかまたは自分のしたことを書き記している。だが、ブログに書くということはそれが私のこころの関心事の一つであることはまちがいがない。
他人がどう考えるとかということではない。自分の関心事でないと書くことができないのである。
そういう意味では自分勝手な話ばかりで他人を思いやるというところが少ないかもしれない。若いときには被害妄想的であったが、これだけ自分のことだけはちょっとわかるが、人のことはほとんどわからないという経験をして、それを客観視すれば、被害妄想は多分に自分を他人が大きく思ってくれているという思い上がった思いこみであり、そんなことを他人は思っていないのだと分かって来て、自分勝手な思いだと思えるようになった。
ところがもう書くことがないのか、それとも自分の感性が乾ききってしまったのか。私は普通の人よりも好奇心に富んでいると思っていたのだが、どうもそうとも言えなくなっている。
このブログにはもちろん自分の考えたことの反応が反映しているが、それとかまたは自分のしたことを書き記している。だが、ブログに書くということはそれが私のこころの関心事の一つであることはまちがいがない。
他人がどう考えるとかということではない。自分の関心事でないと書くことができないのである。
そういう意味では自分勝手な話ばかりで他人を思いやるというところが少ないかもしれない。若いときには被害妄想的であったが、これだけ自分のことだけはちょっとわかるが、人のことはほとんどわからないという経験をして、それを客観視すれば、被害妄想は多分に自分を他人が大きく思ってくれているという思い上がった思いこみであり、そんなことを他人は思っていないのだと分かって来て、自分勝手な思いだと思えるようになった。