物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

eine "altere Dame

2016-04-29 16:17:26 | 日記
とeine alte Dameとどちらが年上かというと、eine "altere Dameだろうという返事が帰って来そうである。だって"altereとaltの比較級になっているではないですか。

ところがさにあらず。だからびっくりする。日本語に訳すとeine alte Dameは一人の老婦人となろうか。ところがeine "altere Dameのほうは「中年の御婦人」となってたぶんに中年の御婦人は老婦人よりは若い。

こういうことをドイツ語で試験されると私たちはすぐにドイツ語の読解力のなさというかドイツ語の理解力のなさを暴露してしまう。

もっともこれはドイツ語でも難しい部類に入るだろうか。もう20年以上も前のことだが、都立大学におられた中島悠爾先生がNHKのドイツ語の講座の応用編だったかを担当されていたとき、ラジオの講義でこの違いを強調されたことがあったが、それに対する長文のドイツ文の訳にはその知識を反映したものではなかった。だからたぶんドイツ文の日本訳をつくった人は中島先生ご本人ではなく、多分NHKの係りの方かそうでなければ、中島先生のところにおられた大学院生か誰かがつくられたのであろうと想像された。

上に挙げた比較級の例は絶対比較級とドイツ語の文法で言われているものであり、初級のドイツ語のコースでは学ばないであろう。私にしてもいまこんなことを書いているが、実際に文章の中で出会ったら、きちんと正しく理解できるかどうか甚だあやしい。

zust"andigとanst"andig

2016-04-29 12:52:00 | 日記
zust"andigは「担当の」とか「権限のある」という意味である。anst"andigの方は「礼儀正しい」とか「満足のいく」というような意味らしい。

これらの言葉の意味を昨年のドイツ語検定試験の前には憶えていたが、すぐに忘れてしまったらしい。昨日のドイツ語のクラスでまたこのzust"andigという語を聞いた。そのときに多分「担当の」という意味だろうなとは思ったが、確かではなかった。ましてやanst"adigの方は意味を忘れてしまっていた。

やはりそれらが検定試験のときだけではなく、いつでもきちんと思い出せるようでなければならない。どうも試験だけ通ればいいという気はしない。検定試験に通ってもやはり実力はないという気がする。

昨日もブログに書いたかもしれないが、接続法第二式の用法でマーラーの歌曲にいろいろな日本語訳があるというのはやはりそれくらいドイツ語を私たち日本人には母語のようにはわかっていないということだろうか。

と書いて、昨日のブログを見たら、上に触れた接続法第二式の話は書いていなかった。それでちょっとだけ触れておく。

In diesem Wetter, in diesem Braus,

Nie h"att ich gesendet die Kinder hinaus;

Man hat sie getragen, getragen hinaus.

Ich durfte nichts dazu sagen.

の2行目の訳としていろいろの訳があるというので、「ドイツ語圏とその文化」1-5にこの記事を寄稿された K さんはその訳の広がりが大きいので、その意味をとりかねて悩んでいるというのです。

それで決着をつけようと思ってドイツ語の入門書をとりだしてみたのですが、やはり良く分からないというのが私の現状です。

接続法第二式は普通には非現実話法と言われるものが主な用法ですが、一般には遠慮がちにお願いや依頼をするときに使われます。

接続法ではそれが事実であるかどうかは保証されないというのが、特徴だと大学のドイツ語の講義で聞いたというかすかな記憶があります。だとすれば、

Nie h"atte ich gesendet die Kinder hinaus;

は「決して子どもたちを外に出したりしない」となるのか、むしろそれの非現実性を述べたものとして「こどもたちを送り出さなければよかった」となるのか。

現実には「送り出してしまった」のではなかろうかという気もしてくるから、やはり決着はなかなかつきそうにありません。

In diesem Wetter, in diesem Braus,

を一種の条件文と考えれば、結論部が「子どもたちを決して外には送り出さないであろうに」と考えるとどうも現実には子どもたちを嵐の中に送り出してしまったという風にもとれるので、やはり K さんならずともやはり悩んでしまうのです。

もう一つの解釈は条件文と考えられた

In diesem Wetter, in diesem Braus,

まで否定されているとすれば、子どもを外に出していたのはこんな嵐の天候の日ではなかったということになります。だからそのときにはこのような嵐の天候のときではないので、子どもを外に出してやっていたが、それで不慮の事故が起こり子どもたちの命が奪われたことになります。どうもそう解釈するのがよさそうに思えます。

よく、非現実話法の例として出される文に

Wenn ich ein V"ogelein w"are, flo"ge ich zu dir.

というのがありますが、「もし私が小鳥なら、君のところへ飛んでいくのだが」となりますが、これは条件文の方も非現実なので現実には「私は小鳥ではなく、だから君の所へ飛んでいけない」というのが現実となります。