『失われた時を求めて』はフランス語で書かれた小説である。
どんな小説なのかは全く知らない。もう多分50年以上購読している岩波書店の雑誌「図書」3月号に「失われた時をめぐって」とかなんとかいうエッセイがあった。
それをよく読んだわけではないが、ちらっと見たら「失われた」という語はフランス語ではperduだとあった。動詞原形はperdreであろう。この動詞は規則活用の動詞である-erではない。perduは完了分詞である。
ところで私の関心が出てきたのは、この『失われた時を求めて』のフランス語でのタイトルをどうなんだろうかということである。
それで自分の知っているフランス語の語彙である。で訳して見て、後でインターネットでどれくらいあっているかあっていないかを調べてみたら、「おもしろいのではないか」いうことであった。
「失われた時」はle tmps perduかdu temps perduであろうか。「求めて」というフランス語は知らない。知っている語には探すという語のchercherを知っている。
だから、Chercher le temps perduかChercher du temps perduであろうか。chercherには人を駅などに迎えに行くという意味もある。英語なら求めるとか探求という語でQuestという語があったような気がするが、この語でフランス語に対応した語があるかどうかは知らない。
一応、自分なりのフランス語訳はできたので、これが本当のタイトルとどれくらい近いのか、または、どれくらいちがうのかはこの後でインターネットで調べてみたい。
ちなみに、このエッセイに書かれていた、どうでもいい知識として、フレンチ・トーストはpain perdu(パン ぺルデュ)というとあった。意味は本来のパンの意味をなさないパンということだそうだ。初めて知った(注)。
(注)pain perduを文字通り訳すと「失われたパン」とでもなろうか。フランス語に関心をもって50年以上だが、この語は初めて知った。
いまインターネットのWikipediaから、その始まりの部分を無断コピーしたのが、以下の引用である。『失われた時を求めて』(うしなわれたときをもとめて, À la recherche du temps perdu)であった。
私の仮訳とちがったのは前半のÀ la rechercheであった。つたなくではあるが、発音をカナでつけておくと、ア ラ ルシェルシュ デュ タン ペルデュであろうか。
rechercheは英語で言えば、researchであろうか。研究とか探求はresearchであるので、私にもそれほど意外な言葉ではない。ただ聞いたり、見たりしたらわかる語ではあるが、残念ながら、会話とかですぐに出てくる言葉ではない。
(以下引用はじめ)
『失われた時を求めて』(うしなわれたときをもとめて, À la recherche du temps perdu)は、マルセル・プルーストによる長編小説。プルーストが半生をかけて執筆した大作で、1913年から1927年までかかって全7篇が刊行された(第5篇以降は作者の死後に刊行)[5][6]。長さはフランス語の原文にして3,000ページ以上[7][8]、日本語訳では400字詰め原稿用紙10,000枚にも及び[8][6][9][注釈 1]、「最も長い小説」としてギネス世界記録で認定されている[10]。ジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』などと共に20世紀を代表する世界的な傑作とされ、後世の作家に多くの影響を与えている[11][12][9]。
眠りと覚醒の間の曖昧な夢想状態の感覚、紅茶に浸った一片のプチット・マドレーヌの味覚から不意に蘇った幼少時代のあざやかな記憶、2つの散歩道の先の2家族との思い出から繰り広げられる挿話と社交界の人間模様、祖母の死、複雑な恋愛心理、芸術をめぐる思索など、難解で重層的なテーマが一人称で語られ、語り手自身の生きた19世紀末からベル・エポック時代のフランス社会の諸相も同時に活写されている作品である[13][14]。
社交に明け暮れ無駄事のように見えた何の変哲もない自分の生涯の時間を、自身の中の「無意志的記憶」に導かれるまま、その埋もれていた感覚や観念を文体に定着して芸術作品を創造し、小説の素材とすればよいことを、最後に語り手が自覚する作家的な方法論の発見で終るため[8][7][15][16]、この『失われた時を求めて』自体がどのようにして可能になったかの創作動機を小説の形で語っている作品でもあり、文学の根拠を探求する旅といった様相が末尾で明らかになる構造となっている[8][15][17][18]。
こうした、小説自体についての小説といった意味も兼ねた『失われた時を求めて』の画期的な作品構造は、それまで固定的であった小説というものの考え方を変えるきっかけとなり[13][17]、また、物語として時代の諸相や風俗を様々な局面で映し出しているという点ではそれまでの19世紀の作家と通じるものがあるものの、登場人物の心理や客観的状況を描写する視点が従来のように俯瞰的でなく、人物の内部(主観)に入り込んでいるという型破りな手法が使われ、20世紀文学に新しい地平を切り開いた先駆け的な作品として位置づけられている[14][13][15]。
(引用終わり)