昨日(2011.1.23)の朝日新聞に出ていた書評を見て興味深く感じた。
私自身はこの書評を見て本を購入して読むことをほとんどしないから、読書家には入らない。だが、日曜日に新聞に載る書評を楽しんでいる。
本来書評は人に書籍を読むことを勧めるのが目的だろうから、この朝日新聞の書評は少なくともほとんど私には機能していない。しかし、今回2つの書評を興味深く感じた。
一つは山城むつみ著「ドストエフスキー」(講談社)の書評であった。もう一つは明日書く。
書評子はいう。「ドフトエスキーの小説は質の違いがある。その違いはどこからくるのか?」「本書で著者はバフチンの[ラズノグラーシエ](異和)なる概念をドフトエフスキーを読む解く鍵であるという」「ドフトエフスキーの小説の人物たちはたえずこの[ラズノグラーシエ]にさらされる」「小説作者のかたりですら、この異和を引き起こす」「作家が人物の内心を描くという行為そのものが、人物のありかたを揺るがせてしまう。結果、小説はどこへ向うか分からぬものになり、作家は自己の創造した人物たちとの「対話」をひたすら続けるほかなく、目指す場所へと至る奇跡を祈り願いながら言葉の秘境をさまよい歩く」
ここにかいつまんで引用した一番最後のところはちょっと私にはどうでもいいが、「作家が人物の内心を描くという行為そのものが、人物のありかたを揺るがせてしまう。結果、小説はどこへ向うか分からぬものになり」というところを読んで私は量子力学に出てくる不確定性関係を想起した。
このドフトエフスキーが生きた時代がいつのことなのか私は知らない。だから、ドフトエフスキーが不確定性関係という科学の分野で知られた思想の影響を受けているとは思わないが、そういう奇妙な性格をドフトエスキーの小説はもっているらしいということを知った。
ちなみに私はドストエフスキーの小説を1冊も読んだことがない。
それにしてもこの書評を書いた作家の奥泉光さん、または、この本の著者山城むつみさんは不確定性関係またはその概念をご存知なのだろうか。