何かのお返しに頂いた、品物の中から、自分の好みのものを選んで、パソコンデスクを手に入れていた。しかし、これは自分たちで組み立てをしなくてはならなかった。
それで、送ってもらってから、久しく(多分半年以上)そのままにしてあったが、昨日妻と二人でパソコンデスクの組み立てをした。1時間くらいの組み立て工程であった。部品はすべてそろっていたのだが、危険防止のために二人で組み立てて下さいとの注意書きに従った。
二人がそろうときまで待っていたのだ。組み立て説明書を見ても細かいところに解らないところがあったが、妻が頭を働かせてくれたので、無事に組み立てが終わった。それを食卓のそばにおいて、書類の置く台とした。もっとも私の食卓は仕事机でもある。
大体、私にはなにかわからないが、物が多い。別に物欲が強い方ではないのだが、なかなかものが捨てられない。特に自分がいろいろ計算したメモとかが捨て難い。大抵の場合にはそれを2度と見返すことはないのだろうが、完全にそうだとも言いかねることがある。
いつだったか、自分の以前に書いた数学エッセイの一文のある箇所が気になり、元の原稿がないかと探したことがあった。そしてその原稿を見つけて対照したら、やはり出来上がった原稿のその箇所が間違っていたことがあった。
そういう箇所は大抵読返していれば、わかるものであるが、それでも自分が書いたものでありながら、時間が経つと自分でもこの文章はどういうつもりで書いたのだろうと頭をかしげるところがないわけではない。
先日、20冊近い冊数の百科事典を拾った話をこのブログで書いたが、その後百科事典を捨てたご本人にそのことをお話したしたときに、「いや、このごろは百科事典はROMで読めますから、スペースが要らないですよね」と言われてなるほど私よりも若い人たちはそういう風に考えるのだと感覚の違いを感じた。
これは私の子どもなどもそうであるが、なんでもわからないことがあれば、iphoneとかスマートフォンとかですぐに検索する。
iphoneとかスマートフォンには全体を書物みたいに概観する機能はないが、それを補っているのは検索機能であり、キーワードを入力して結構簡単に物事の核心に到達することができるらしい。