物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

カタツムリの思想

2013-01-19 14:18:18 | 日記・エッセイ・コラム

動物としてのカタツムリに思想があるかという話ではない。多分カタツムリには思想はないであろう。

ここで言いたいことはカタツムリの歩みのようにゆっくりとではあるが、少しづつでも進んで行くという思想というか、生活態度のことを指している。

大きな仕事でも毎日ほんの一歩でも進んで仕事を進めて行くと何日後には少しだが、進んでいる。そういう風に仕事をしたいという気持ちがある。

実は私がお願いして数学・物理通信に投稿してもらった原稿があるが、これをlatexに打ち変える気が起きなくて放ってあった。しかし、いつまでも放っておくことなどできない。

だが、そうかといってそれに集中する時間がなく、その気もなかなか起きない。それで、カタツムリ方式で仕事をかたづけようと考えた。

関連の文書を昨日の午後探したのだが、どこへどうしまってしまったのか行方がわからない。仕方なく、パソコンのファイルにある文書を再度印刷して、それをもとにしてlatexで式の入力を始めた。

もちろん、式の入力も面倒ではあるが、それはまだ大したことではない。大変なのはむしろ図をpicture環境で描くところにある。だが、それにしてもまずは式の入力である。1頁でも1行でもいいから、毎日入力をして行こうとしている。

こういう考えというか生活態度を私に教えてくれたのは亡くなった数学者のSさんであった。このSさんはオールド・スタイルの数学者であり、数学思想もまた容貌もあまりモダーンな方ではなかったが、生き方をこのSさんから教わった。

Sさんは毎日自分の知らない微分方程式があれば、それをノートに書き出しておいて、時間をつくっては解くということを自分に課しておられた。一問でもいいから、そうやって解く。そういう風にしているのだと私に教えてくれた。そうすれば、長年にわたれば、その結果はつみあがっていく。

彼の書いた佐々木重吉著「微分方程式概論」上、中、下(槇 書店)は労作であるが、彼の長年にわたって書かれたノートを素材として著された。もっともあまりモダーンではない。なんでも逐一、式で計算をしているという意味ではあまり現代数学的ではない。

だが、3次元のラプラス演算子をデカルト座標系から極座標系に正直に変換する計算をしてあったりして、貴重な書である。この計算をきちんとしてある書はあまり見かけない(注)。

ところが、あるとき級数展開で、ある微分方程式を解こうとしたときにSさんの本には徹底的に計算はしてあるのだが、その計算法のあまり見通しがよくないことに気がついた。Sさんよりも、もっとモダーンな数学者Kさんの同じ微分方程式の解法と比べてみるとKさんの解法では計算を逐一はしてはいないけれども、見通しがはるかによかった。

(注) この3次元のラプラス演算子のデカルト座標系から極座標系への変換について、小著『物理数学散歩』(国土社)の記述を見て、いつもこのブログにコメントを下さるNさんがもっと簡単な方法があると注意をしてくれた。それは2回に変換を分けてするという方法である。

もし一般のn次のラプラス演算子のデカルト座標系から極座標系への変換をするときにはこの数回に変換を分ける方がオーソドソックスな方法であろうというNさんのご指摘は重要である。

自分でこれを調べて、納得するということはまだしていないが、Nさんのご指摘の通りであろう。なんでも優れた人は一段と高い立場から考えられているものだと感心をした。


日本の常識、世界の非常識

2013-01-18 13:40:17 | 国際・政治

昨夜のドイツ語のクラスで、先生のR氏からドイツでの免許証の更新は何年と聞かれて、lebenslang(一生続く)と答えたら、これはやはり他のクラスのメンバーにも驚きだったらしい。実はそういった私もひょっとしたら、違ったかなと思ったくらいだから。

日本では免許証の更新は3年とか5年とかが普通であるから。でもドイツでは一度車の免許を取ったら、死ぬまで事故とかを起こさない限り、有効であった。ところがそれが15年ごとに更新をするようになるとかいうニュースが最近あるらしい。

ここで言いたいのは、日本で普通のことでも外国では必ずしも普通のことではないということである。そのようなことをいくつか挙げてみよう。

大学入試のための入試センター試験が明日から始まるが、フランスとかドイツでは大学は入学試験をしない。その代わりに大学入学資格の試験がある。フランスではバカロレアというが、ドイツではアビトューアという試験に合格すれば、大学に入学できる(これはいつかも書いたGrandes 'Ecolesを除いての話である。フランスでエリートを養成する大学は入試がある。それもきわめて難しい試験がある)。

とはいうものの、バカロレアの成績があまりよくないと志望の大学の学科に入れないこともある。

ドイツでは診療所で診察料を払う必要がない。これは日本で必ずいくらか診察料を払う必要があるのとはまったく異なっている。ドイツでも一時期だけ、診察料として10ユーロを払うというシステムにしたそうだが、ドイツ人に納得を得られなかったという。

これは、健康保険料を多額に払っているのになぜまた診療所で費用を払うのかと大多数の人々が納得しなかったからだという。だから、診療所で患者がお金を払うことはないという。

大学は学生の就職の世話や斡旋をしない。日本では特に伝統的に工学部では教員の義務の一つに学生の就職を世話するということがある。また学生によると3年生の秋ごろになるとそろそろインターネット等で、会社の状況を調べたりしてもう学業に手がつかない学生が結構いる。

卒業証明がないとドイツでは就職活動ができないので、学業途中で就職活動にのめるこむことはない。もっともいずれかの会社に出かけて実習を行うので、それがもとで企業への就職の手がかりとなることはあるらしい。

大学での授業料はドイツとかフランスでは原則として無料である。ただ、最近のドイツでは州によっては低額の授業料をとるところもあるが、それでもまったく授業料を取らない州もある。フランスでは無料のようである。

高速道路の通行料金はドイツでは無料である。ただ、これも最近トラックのような貨物を運ぶものには料金をとる場合もあるらしい。フランスではしかし高速自動車道は有料である。

休暇も州ごとに異なっていて、一年の夏休みの期間も州ごとに異なる。アウトーバーンが一斉に渋滞することを緩和すること目的に設定されている。一昨年だったか日本でも観光庁長官の溝畑さんが地域ごとに休暇をずらす制度を導入しようとしたが、反対が多くて頓挫したらしい。


Science is cool and fun

2013-01-17 21:09:52 | 科学・技術

Science is cool and fun.と16(?)歳の少女(エイミー)に言われたら、私も思わずにこっとしてしまうだろう。これは今週の月曜のNHKのTEDカンファランスの放送であった。

子どものときには誰でも好奇心に富んでいて、大人に「あれはどうして、これはどうして」と毎日疑問をもって尋ねることが普通である。ところが少しづつ年をとってくると小さいときにあれほど好奇心に富んでいたのに、何ごとにも驚かなくなってくる。

それはある意味では成長の証でもあるが、子どものときの好奇心をもったまま成長することができないのだろうか。科学の一番の源となるのは素朴な好奇心のはずである。

そういう考えを実践しようとした大人の科学者(ボー・ロット)が子どもの科学を支援しようと考えた。これは一種のneotneyという概念らしい(注)。

こうして、子どもたちの疑問から出発して子どもたちが実験を企画して、それを遊びのように行い、その成果を科学の論文に書いて、専門雑誌に投稿したら、なんと専門雑誌に掲載されたという。

なんと、その著者の一人の少女(エイミー)とその研究を支援した科学者(ボー・ロット)とがこのTEDカンファランスで報告をしていた。

エイミーがScience is cool and fun.というときのcoolとは日本語でいうと「かっこいい」という語にあたるだろうか。

ともかく、子どものときの知的好奇心を失わずに、大人になって、科学者になれるのかどうか(neotney)。今後が楽しみである。

その正否はともかくとして、世界にはいろいろな発想をする方がいるということである。私たちも学ぶところ大である。

ロット(Lotto)によれば、科学は生き方であり、科学の源はまず疑問をもつことであり、実験は遊びである。そして観察とそれのフィードバックしての、さらなる実験や観察とが研究であるという。これは多分正しい道であろう。

ここで取り上げられた研究は「ハチのような動物が人間の認識と同じように学習して、図形を認識するか」という疑問から出発した実験と観察であった。

(注) neotenyとは幼形成熟と訳されている。この幼形成熟とは広辞苑によれば、「イソギンチャク類等の動物で発生が一定の段階で止まり、幼生形のままで生殖腺が成熟して生殖する現象」だという。ここでは、子どものときの知的好奇心を失わずに、大人になって、科学者になるという概念をさす。


能動的と受動的な見方

2013-01-17 14:38:06 | 物理学

剛体の回転を扱うのに能動的な見方で取り扱うか、受動的な見方で取り扱うか。剛体を回転させるのは能動的な見方であり、剛体の回転を扱うときにはこれが普通であろう。

剛体を回転させる代わりに、それと等価となるように座標系を回転させる方法もある。Kさんの書かれた複素数の回転は能動的であるが、ベクトルの回転の表し方がどうも受動的な見方で表記されているのが気になりだした。ところが私自身も以前に同じようにちぐはぐな取り扱いをしていたことに気がついた。

それは小著「数学散歩」での三角関数の加法定理の導出で回転行列を用いたところで、どうも受動的な見方で書いていたことに気がついた。

これは複素数でのオイラーの公式と座標系の回転と使っての比較のところであったが、どうも見方が統一を欠いたということが気になって、元ネタの本である、ソーヤーの書「数学へのプレリュード」(みすず書房)を確かめたら、さすがにソーヤーはちゃんと両方とも能動的な見方で書いてあった。読者の皆様、すみません。

それで、自分の書を訂正する必要ができたのだが、この「数学散歩」(国土社)は絶版ではないが、品切れで再版を出す予定はまったくないので、頬かむりするしかない。もっとも世の中の鋭い読書家諸氏にははじめから私の理解が頼りないところなどお見通しであろう。

もっとも受動的な見方と能動的な見方とはどこか違うかというと回転の角を受動的な見方で\thetaと取っていたのなら、能動的な見方では-\thetaと取るだけのことである。

ところでこのことに気のつく元ととなった、Kさんの書かれた式を能動的な見方で修正してみているが、どうも修正をした方がいいのかは疑問に思えてきた。もう少し全体を見てから考えるべきなのであろうか。


友人からの手紙

2013-01-16 13:05:24 | 日記・エッセイ・コラム

私は友人とのつきあいが上手な方ではない。それで中学校や高校での同期生との連絡などあまりしたことがない。

もっとも一昨年の10月の同窓会の幹事をしたせいもあって、劇作家・演出家のSさんに一昨年の早い段階で手紙を書いていたらしい。その返事はもらわなかったが、忙しくしているのだろうと思って気にもしていなかった。

それが先日そのSさんから一年ぶりの手紙とDVDが届いた。DVDは彼が演出した演劇の2本である。前に彼の演出になる、「小栗判官と照手姫」という演劇を I 市の中央公民館だったかで見たことがあった。

どういう考えなのかわからないが、このSさんは死者と生者の交流というようなことをテーマとする、演劇を盛んに演出する。そのことについては彼なりの哲学か思想があるのだろうが、よくはわからない。

ともかく、今回送ってくれたDVDは「さんせう太夫」と「しんとく丸」という演劇の2本であった。あいにく、DVDのプレヤーを持ち合わせないので、まだ見ることができないのだが、中学校や高校で親しかったSさんの作品なので、私のまわりの人と一緒に見てみたいと思っている。

彼は前にもこのブログで書いたかもしれないが、生前の詩人・作家の寺山修司と親しかったので、寺山修司の著作集の監修と編集を行っている。

寺山修司は東北の出身(多分青森県)だったと思うので、その彼と四国で育ったSさんとの交流は結構いい取り合わせであったかもしれない。

昨日はその返事を書くために大分時間をとった。


パソコンデスク

2013-01-15 11:33:32 | 日記・エッセイ・コラム

何かのお返しに頂いた、品物の中から、自分の好みのものを選んで、パソコンデスクを手に入れていた。しかし、これは自分たちで組み立てをしなくてはならなかった。

それで、送ってもらってから、久しく(多分半年以上)そのままにしてあったが、昨日妻と二人でパソコンデスクの組み立てをした。1時間くらいの組み立て工程であった。部品はすべてそろっていたのだが、危険防止のために二人で組み立てて下さいとの注意書きに従った。

二人がそろうときまで待っていたのだ。組み立て説明書を見ても細かいところに解らないところがあったが、妻が頭を働かせてくれたので、無事に組み立てが終わった。それを食卓のそばにおいて、書類の置く台とした。もっとも私の食卓は仕事机でもある。

大体、私にはなにかわからないが、物が多い。別に物欲が強い方ではないのだが、なかなかものが捨てられない。特に自分がいろいろ計算したメモとかが捨て難い。大抵の場合にはそれを2度と見返すことはないのだろうが、完全にそうだとも言いかねることがある。

いつだったか、自分の以前に書いた数学エッセイの一文のある箇所が気になり、元の原稿がないかと探したことがあった。そしてその原稿を見つけて対照したら、やはり出来上がった原稿のその箇所が間違っていたことがあった。

そういう箇所は大抵読返していれば、わかるものであるが、それでも自分が書いたものでありながら、時間が経つと自分でもこの文章はどういうつもりで書いたのだろうと頭をかしげるところがないわけではない。

先日、20冊近い冊数の百科事典を拾った話をこのブログで書いたが、その後百科事典を捨てたご本人にそのことをお話したしたときに、「いや、このごろは百科事典はROMで読めますから、スペースが要らないですよね」と言われてなるほど私よりも若い人たちはそういう風に考えるのだと感覚の違いを感じた。

これは私の子どもなどもそうであるが、なんでもわからないことがあれば、iphoneとかスマートフォンとかですぐに検索する。

iphoneとかスマートフォンには全体を書物みたいに概観する機能はないが、それを補っているのは検索機能であり、キーワードを入力して結構簡単に物事の核心に到達することができるらしい。


ベアテ・シロタ・ゴードン

2013-01-14 16:11:45 | ニュース

先日亡くなった、昭和20年代のはじめに日本国憲法の草案を起草するメンバーの一員であったといわれる、ベアテ・シロタ・ゴードンさんの現代日本への遺言とでもいうべき言が昨日の新聞に出ていた。

Beate Sirota Gordon said any backtracking on Article 9 would be a major loss for Japan.

(ベアテ・シロタ・ゴードンさんは、憲法9条に逆行するいかなることも、日本にとって大きな損失になるだろうと語った)

とあった。ここで、backtrackingとは逆戻りという意味だそうである。逆行を英語でなんというかなどといままで考えたこともなかったが、初めてこの語を知った。


体の不調

2013-01-14 15:53:28 | 健康・病気

先週の土曜日、以来腹をこわしている。風邪気味なのもあるが、土曜の夜だったかの夕食にいつもはそんなに食べないのにライスのおかわりまでしてしまった。

それがうまいので食べ過ぎたのなら、しかたがないところもあるが、そうではない。電気がまにさらに軽く一膳分くらいの飯が残ったので、始末してしまおうなどと柄にもないことを考えのだから、情けない。

一膳飯ですむところを2膳以上食べてしまったのだからしかたがない。その夜はときどき腹が痛んだ。それで日曜日はあまり食欲がなくコタツで寝て過ごした。夕方になって少し食べようとはして見たが、どうも食は進まなかった。

今朝は3日目ということもあり、昨日と比べれば、少し食は進んだが、それでもあまり食は進まない。もっとも肥満気味であるから、数日食べなかったとしても多分どうってことはないだろう。水分の補給はしなければならないけれども。

ということで仕事場には出てきたものの、仕事にはならない。ようやく妻のあるコーラスグループの会計報告書の作成の合間を見て、このブログを書いている。


南方週末

2013-01-11 12:02:14 | 国際・政治

広東省の新聞「南方週末」が記事を宣伝省に書き換えられたということが新聞の話題になった。それを釈明するような声明を多くの中国の新聞社が半ば強制的に出さされたとか新聞で読んだが、北京の新聞「新京報」だけがこの釈明を出すことに抵抗をしているとこれも新聞報道になった。

そして、これに従わないと廃刊だとか新聞社の閉鎖だとか当局に脅しをかけられているという。それに反抗して編集長が辞職をするとかしないとか。

もちろん、これは立派な行為ではある。が、日和見かもしれないが、ある程度は突っ張ることは必要だが、限度を越えて突っ張らないことが必要ではないかと思っている。

これは記者とか編集長が辞職して記事がまったく書けないどころか、生活にも困るという事態は避けた方がいいという判断からである。

確かに時代を作っていく人たちの献身的な尽力で社会がよくなっていくことは間違いがないが、それでもあまりに大きな犠牲は決して得策ではないのではないと思っているからである。

そうかといって自分の地位を守るだけに汲々とすればいいと思っているわけではない。ある毅然とした態度は必要であるが、小林多喜二に見られたような、官憲によって虐殺されるという事態は避けるべきだという判断である。もっとも詩人の高村光太郎に見られたような当局への迎合は見苦しい。最低、沈黙を守るというぐらいの抵抗はするべきであろう。

それはともかく、10年の時間を経ると10年前には考えられなかったようなことが実現するものである。そういう時代というか歴史を見通すことも大切な判断ではないかと思う。

今日の新聞によれば、新聞「南方週末」の宣伝省への抗議は受け入れられて、記事の事前検閲は宣伝省から取り下げられたらしい。それで、徐々に記者たちも元の職場に復帰をしているらしい。これは中国では過度に政治的な判断が入っているためらしい。

これからも中国に限らず、日本においても波穏やかということはないだろうが、こうやって少しづつ時代は社会は変わっていく。だが、果たして日本の社会は逆コースから戻れるのだろうか。心配なことである。


EcoleとSchule

2013-01-10 12:00:58 | 外国語

'ecoleとはフランス語で学校を意味する。小学校や各種学校の意味だという。ところが'Ecoleと大文字で書くと高等専門学校(grande 'ecole)を意味するという。

このgrande 'ecole(グランデコル)は大学よりも格上の学校である。普通にはbac(バカロレア)に合格すると大学に入学資格を得るのだが、このgrande 'ecoleではさらに入学試験があり、フランスのエリート養成の学校である。

ところが、その学校が大文字と小文字の差だが同じecoleと呼ばれていることがおもしろい。

文学者サルトルが卒業した'Ecole normale sup'erieureエコール・ノルマール・シュペリュール(日本語訳では高等師範学校)とか群論の創始者として有名な数学者のガロアが在学したことで知られる、'Ecole polytechniqueエコール・ポリテクニーク(日本語訳では 理工科学校)とかはよく知られている。

ドイツではHochschuleというと大学のことであり、高等学校と訳してはいけない。このごろは総合大学のUniversit"atも多いが、工科大学はいまでもTechnische Hochschuleと呼ばれることが多い。有名なのはAachenの工科大学である。これはもともと工科大学から出発したからであろう。

もっともアーヘン工科大学はひょっとしたら、もうUniversit"atを名のっているかもしれない。もう工科大学ではない総合大学になって久しいから。

大学に入ってびっくりしたのは学科のことを教室と言っていたことであった。理学部物理学科は物理教室と言われており、小学校の教室を連想してはじめはおかしかったが、そのうちにそれに慣れてしまった。この学科はDepartmentといい、物理学科ならDepartment of Physicsである。

ところがドイツに行って、びっくりしたのはInstitut f"ur Physikというのは物理学研究所ではなく、物理学科であった。どうも英語でInstitute for Fundamental Physicsなどというと学部の学生などの教育は引き受けない、研究所を意味するように思っていたからである。

広島大学に付属していた、理論物理学研究所も大学院生を引き受けていたから、大学院生が研究所にいることには違和感はなかったが、学部学生を面倒を見る教育機関であるということをInstitutという語で意味することにはちょっと面食らった。


人の寿命

2013-01-09 11:34:01 | 日記・エッセイ・コラム

元同僚の死に接して人間の寿命とは不思議な物だと思う。自分にも他人にも自分の寿命がどれくらいなのかは予測ができない。だから、人間は無限の寿命があるかのごとく振舞っている。そうでなくては生きてはいけないだろうと思う。

明日、交通事故で死ぬかもしれないし、10年後に病気で死ぬかもしれない。だが、それがわからないから、自分が死んでしまうまでは楽観的に生きられるのであろう。それがけしからんという話はない。

小児科で評論家でもあった、松田道雄はどこだったか覚えていないが、「人の寿命というのはろうそくの火のようなものだ」と書いていた。短いろうそくもあれば、細長いろうそくもある。そして自分の命のろうそくは細長いのか、または太く短いのかは自分では知ることができない。そこがおもしろいともいえる。

そういえば、放射性元素の場合には個々の原子がいつ崩壊するかは予言することができない。人間に知識としてわかっているのはどれくらいの割合でその放射性元素が崩壊して他の元素の原子に変っていくかということだけである。その知識を人は崩壊定数という用語で呼んでいる。

人間の寿命と放射性元素の原子の崩壊の寿命とは関係がまったくないのだが、ちょっと人間の寿命のありようと似ている気がする。もちろん、人間の寿命の場合にはもっと細かくみれば、より決定論的であり、単に統計的なバラツキであり、放射性元素の崩壊の場合にはもっと本質的にstochasticである。


元同僚の死

2013-01-08 13:34:41 | 日記・エッセイ・コラム

今朝、朝食の食卓で新聞を見ていたら、元同僚だったOさんの死亡が出ていた。名前と住所から多分間違いがないとは思ったが、一応元の勤務先に電話をして確かめた。

先日年賀状をもらったばかりであり、そのときには奥様との写真がついており、「年の割には元気です」とあったからまさかと思ったが、私たちはもうそういう年齢に達しているということらしい。

ときどき訪問する友人の数学者Nさんの御宅のご近所にこの葬儀場があることがわかったので、あわてて支度をして出かけた。元勤務先の方々はそれほどは多くはなく、数人来られていただけであったが、会葬者は多くて、故人の人柄とおつきあいの広がりとが偲ばれた。

自分には厳しいが、他人にはやさしい方であった。本当は不平不満も多くあったのだろうが、そういうことは一切口にはされない方で、人格者でもあった。

もっとも私は不平不満も口に出していうべきであり、それで長生きをした方がいいという考えである。

突然亡くなったのかどうか喪主のご長男からも説明はなかったので、事情はわからなかったが、少なくとも私には突然のことと思われた。


数学・物理通信の定期購読

2013-01-07 16:13:49 | 学問

今日、午前中にブログを書いたつもりだったが、どうも残っていない。これは他の作業を私が今日のブログを書いたと思ったのか、それとも本当にブログを書いたのだが、保存に失敗したのかまったくわからない。

どうも私にも認知症が起こったらしい。もっとも今朝は来たのが11時15分過ぎであるからそんなに早い時間に来た訳ではない。これは皮膚科によって頭のいぼの治り具合をみてもらってから仕事場にやって来たからである。

ところで、友人のKさんが関係している、益川塾に集まられている方から、「数学・物理通信」の定期購読するにはどうしたらいいのかという問い合わせがあったとKさんから知らせがあった。

その方法についてはKさんにすでに知らせたが、簡単である。私のところへメールを頂ければよい。またはこのブログにコメントを頂けるとよい。コメントは公開されるまでは私にしか読めないので安心して自分のメールアドレスを書いてください。

それで次回以降の定期購読のメールのアドレス簿に載れば、そのアドレスをコピーして送付先をつくるので、自動的に受け取れるようになる。、「数学・物理通信」は印刷体のものはまったく発行しないので、メールのアドレスをもっていることが定期購読には必要である。

個人的なメールのアドレスのない方はしかたがないので、大学とか研究所とかの所属の機関から名古屋大学の谷村さんのサイトを通じてダウンロードしていただく外には方法がない。

もちろん、購読といっても無料配布のサーキュラーである。新しい号が発行されると谷村さんがほとんど即日にアップロードして下さるのでほとんどタイムロスはないと思う(谷村さんいつも有難うございます)。

お金を取った方がよく読んでくれるのだという説もあるが、私が金を払ってまで新聞とかテレビの番組とかをインターネットを通して見る気持ちにはならないので無料である。

投稿規程は毎号につけるつもりであったが、このごろの号には大抵頁数が増えるのでつけていない。かなり前のバックナンバーをみていただくしかない。そのうちに投稿規程をもう少し精緻なものしたいとは思っているが、いまのところ以前の号を見て下さい。

このサーキュラーに出しても、プライオリティは主張できないので、プライオリティをどうしても主張したい事項についてはそういう主張のできる雑誌に投稿をお願いしたい。


子どもが東京に帰った

2013-01-06 08:54:20 | 日記・エッセイ・コラム

今朝、東京への始発の航空便で子どもが東京に帰った。妻も私もやれやれである。

別に何か特別なことをするわけではないが、繊細な子で(いや実はもう十分すぎるほどの大人だが)体のアレルギー反応が強いために体がかゆくて眠れない。そうすると本人は気分がよくないから、いらいらする。

それが今回はほとんどなくて夫婦で共に胸を撫で下ろした。こういうあまりイライラしないときはそれほど気難しくもないが、体調が思わしくないと不機嫌になる。それで親子が不仲というわけではないのだが、妻も神経質になってあまり子どもが帰郷するのを歓迎しない。

いや本当は歓迎をしているのだが、子どもの不機嫌をみると自分が悪いかのように感じてしまうので、気が重いのである。そのようなことが今回はなかったので、親子関係の摩擦がなかった。やれやれである。

生活のしかたを工夫するとこういう結果が得られるので、お互いが少し自信をつけてきたと思う。もっとも家の塵と埃が体に反応して体のかゆみを引き起こすので、前もって念入りに掃除はした。でも家の埃などはなかなかなくなるものではない。

でもなんとかお互いになんとか乗り切ることができたので、これからの親子関係に明るい見通しが生じている。


宿題2

2013-01-05 16:59:58 | 外国語

ドイツ語のクラスの宿題が年末の12月29日に出ており、1月2日までに解答を提出せよとのことだったが、我が家は今年は24日から今に至るも特別事態であり、ドイツ語の宿題などをする情況ではない。

だからもちろん宿題の解答を提出などしていない。またいつごろ時間をとって、宿題をすることができるのかもわからない状況である。

これは年末の恒例のいくつかの仕事の他に、子どもの本当に久しぶりの年末年始の帰郷であり、私共夫婦の生活もそれに合わされているからである。

それでも私はまだ影響を受け方が少ないが、妻などは子ども行動に合わせているので、とても自分の時間が取れるという風ではない。

それでも今朝は恒例の書初め無料塾の3年目を行った。これは3人の小学生の書初めを80歳を過ぎた、ご婦人に指導してもらうのである。

もっとも、そのご婦人に書の先生として来てもらっているのは妻である。ご婦人は県展の書道で特賞をとったこともあるくらいで、なかなかの腕前であるが、少し認知症気味である。

だが、人は誰でも役立つことがあると嬉しいらしく、いつもは暇をもてあましておられるが、書の先生をされたご婦人が「書道は楽しいね」と何回も言われていた。

ほんの子どもだと思っていた、子どもたちも一年見ないうちに言動もいくらか大人びてきており、以前の悪童振りからは脱皮しているように思われた。人間はやはり年とともに成長することをまざまざと思い知らされた。