物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

冬の日差し

2013-02-10 17:16:47 | 日記・エッセイ・コラム

今日は日曜で、午前中はコタツに入って新聞を読んだ。冬の日差しが部屋に入ってきて、暖かかった。

毎日曜日には新聞には書評があって、その書評を読んで本を購入することはまずないのだが、それでも読むのを楽しみにしている。

もっとも私みたいな人が大部分だとすれば、書評はどういう風に役に立っているのだろうか。

先日もMITの物理の教授が書いた物理の本の書評が出ていたことがあった。これはテレビとかインターネットでも有名な印象的な物理の講義をする教授である。

その授業のありさまをテレビで1回だけ見たことがあったが、その後シリーズで放送があるのかと思ったのだが、少なくとも私はそのシリーズのテレビ放送を見ていない。

テレビでは老人も子どもも教室に来ていたように思う。

新聞の書評欄では、大きな振り子に大きな鉛の重りをつけて自分が振らせて、その振り子が振動して戻ってくる場所に立っているという実験をするという紹介がされていた。自分の顔の手前まで振り子の重りを持ってきてそこで手を放せば、エネルギー保存則からは絶対にその振り子の重りが自分にあたることはない。

これはもちろん理屈ではわかっているのだけれども、私などは多分たじろいでしまうだろう。

それは理論と実際の経験における恐怖感とは違うということだと思っているが、こういう実験をやってみせれば、その印象はとても強く、エネルギー保存則(くわしくいえば、力学的エネルギー保存則)はその実験を見た人は一生忘れないであろう。

合理的とか科学的ということと感情とか気持ちとかいうことは同じではないということを指摘したのは武谷三男である。

透明なガラスの瓶に密封した糞尿を食卓の上に置いたりすれば、それを見て人は不快感を抱く。それは絶対無害だし、においもしないと言ってもダメななどと述べてもダメだ。すなわち、科学的とか合理性の問題ではない領域があるということである。

原子炉だって絶対安全だから、それを怖がったり、不安に思うのは科学的な素養が足りないのだとは強弁はできないのだということで、この例を挙げられた。

そういう話といまの大きな振り子の実験とは同じではないが、ちょっと似ていると思ったりしたが、本当はどうなのだろうか。