物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

立体の行列式

2013-02-13 10:51:03 | 数学

マダム・キュリーの書いた「ピエール・キュリー伝」(白水社)がある。

その中に訳者の渡辺慧さんの注だったか、それともマリー・キュリー自身が書いていたのか忘れたが、立体的に書く行列式の話が出ている。

普通、行列でも行列式でも平面にその式を書くが、立体的に3次元の形式で式を書くことはない。ピエールはこれを立体的に書くというようなアディアをもっていたらしい。そのアディアがどこかに生きているのかどうかは知らない。

ピエールの思考の独特さを例示する一例として出ていたのではなかったろうか。こんな話を記憶が確かでないのに書くと、コメントを先日頂いた「通りすがり」さんからまたご批判を受けそうである。

しかし、そのことはピエール・キュリー伝を調べれば、すむことである。

ピエール・キュリーはその伝記によれば、小さい時に学校には行かなくて家庭で教育を受けたという。そういうことが現在でも可能であるかどうかはわからないが、ピエールの子どもの時代にはまだ可能だったのであろう。

渡辺慧さんが「思想の科学」の創立同人の7人のうちの一人であったために、哲学者の鶴見俊輔さんはこの渡辺さんとも親しかったが、鶴見さんは戦争中に翻訳が出た、このピエール・キュリー伝は興味深いものだったと回想されている。

(2013.2.18 付記) 上記で立体的な、行列または行列式か記憶がしっかりしなかったので、今朝、「ピエール・キュリー伝」を調べたら、行列ではなくて行列式とあったので、行列式と言葉を確定しておく。


2000本安打、200勝

2013-02-12 10:57:07 | スポーツ

日本のプロ野球選手の名誉の一つに打者なら2000本安打、投手なら200勝を達成するというのがある。

すぐれた打者や投手でもこの記録を達成できなかった選手もあるので、これが唯一の優れた名誉ではないでもあろうが、それでもこれらの記録は単に優れた打者、投手であるだけではなく、負傷や怪我や病気にも打ち勝った体の頑健さも必要である。

昭和生まれの野球人で、このいずれかの記録を達成した人は、昭和名球会に加入が許されるが、この記録がとても普通の人には大変なことであると思うようになった。

それはこれらの記録を達成した人には全く及ぶべくもないが、先日ブログ2000回を達成したときに思ったことであった。これくらいの回数のブログを書いている人も日本でもたくさんおられるであろう。

だが、ブログを書く主題がなければならないし、それだけではなく健康でなくてはならない。ほぼ毎日なんらかの新しい視点を指摘した、自分の驚きを提供することはそんなに簡単なことではない。

新聞やテレビはもちろん書籍とか日常に出会う人のつぶやき等から、自分にとっての新しい視点とかなるほどと思ったこととかを拾うことはそういう自分の感性をいつも磨いておかなくてはならない。

感受性が鈍磨してしまうと、本当は興味深い視点でもとらえ損ねてしまうかもしれない。

(2024.11.28付記) 2,000本安打、200勝の重みは、ブログの回数が7,000回を越えたいまもずっしりと重く感じられる。やはり並大抵の努力ではこれらの記録は達成できないと思われる。

プロ野球選手の選手寿命の貴重さである。私の中学校と高校の同学年にもS君というプロ野球で活躍した友人がいるが、なかなか長い間活躍することは難しいことを知らされている。

私設図書館

2013-02-11 13:40:34 | 日記・エッセイ・コラム

先週の木曜日にドイツ語のクラスでsich leisten(注)という語の例として、お金があったら、どうしたいかとR氏に問われた。クラスの全員に聞かれた問いだが、それぞれのメンバーがそれぞれ独自の答えをされた。

私にはいいアディアがなかったが、一番最後に質問をしてもらったので、少し考える時間をもらえた。それでお金があるのなら、自分の図書館をもちたいと答えた。

その後で医師の I 先生から同じような考えを渡辺昇一(元上智大学)さんがお持ちだとのメールをもらった。そして渡辺さんのある著書を紹介された。その本が本屋にあるかどうかはわからない。

I 先生によれば、渡辺さんの本に載っている写真によれば、渡辺さんの書斎はとても立派なものだという。多分渡辺さんは売れっ子の著者でもあったから、その蔵書もさぞ多いことだろう。

何冊ぐらいお前は本をもっているのかともメンバーの方から聞かれたので、2000冊くらいと答えたが、本当のところはわからない。もっとあるかもしれない。それでも3000冊ほどはないと思う。

実は私の購入した本だけではなく、子どもたちが学生時代に購入した本もいくらか混じっている。だから、本当のところは何冊本があるか、わかならない。それに亡くなった長兄がもっていた本もその全部ではないが、いくらかある。

それにいまではごく一部ではあるが、亡くなった父の蔵書だったものもある。妻にいつも嫌味を言われるので、古本屋に売ろうと思ってミカン箱3箱分くらいを売ったこともあるが、そこで引き取らないと言われた本もあり、そのまま玄関のスペースにミカン箱に入ったまま残されているものもある。

「ファインマンの物理学講義」(岩波書店)とかは引き取ってもらったが、あまり高くは引き取ってもらえなかった。「地球科学」の岩波講座は引き取ってもらったと思うが、「生物学」の岩波講座はそもそも引き取ってもらえなかった。

ところが、今朝の朝日新聞に「集合本棚」という構想についての記事が出ていた。これは私のいう私設図書館であろう。

私設図書館には、当然のことながら、本を置いておくスペースがまず必要である。そういうところがまず確保できるか。それとそれを維持する費用というものも結構必要である。会員制で会費で維持をしたらというようなアディアのようであるが、やはり会員が少なくとも100人くらいの数が居ないことには成り立たないであろう。

もし年に一万円の会費を払うとしても、そのような会費を老齢の年金生活者が払ってくれるだろうか。私なども入っていた学会などもだんだん整理をしていき、物理学会だけにしぼってしまった。この年会費だってなかなか払いかねているという現状である。

東京だといろんな人がいるから、こういう需要もあるかもしれないが、松山くらいの都市だとその会員だって募集をしたとしても人数は知れたものであろう。

元国立大学の E 大学の図書館だってその蔵書を置く書庫の場所がないということで、少なくとも複数もっていた図書はどんどん売却しているとも聞く。これが大学法人の図書館の実状である。

自治体の図書館に至っては、この事情はもっと厳しい。多分購入して閲覧に供していた雑誌なども数年間保管した後で売却または捨てることをしている。

これは I 市の市立図書館では、雑誌「朝日ジャーナル」を保管していなかったと聞いた。これは兄が創刊号から1,2冊の欠号があるもののほとんど、そのバックナンバーを持っていたので、寄付しようかと図書館に問い合わせてわかったことであった。

これは I 市だけの問題ではない。多分どこの自治体の図書館も同じようなものであろう。いつだったか、ある書籍を格安の値段で古本として購入したことがあったが、これは自治体の書籍の公印が押してあるところを修正液で消して見えなくしてあった。それでも光に透かしてみたら、東京都の中野区の区立図書館の蔵書だった。

昨年、県立図書館に行って、大学時代に私が公費で購入していたPhysical Review Lettersという雑誌と他の2,3の雑誌をもう大学ではもてないので、受け入れてもらえないかとお願いに行ったら、英語の雑誌は受け入れないと言われた。それにもう手狭でスペースがないということだった。

書籍を電子的な記録媒体にできないのかと尋ねたら、それができるのは国会図書館だけでまだ自治体の図書館はできないのだといわれた。

電子媒体にできたとしても、電子媒体にした書籍は一覧性がない。それで、冊子体の書籍とは自ずから違う。もちろん電子媒体の場合には検索機能が充実しているので、かえって便利な場合もある。

いずれにしてもとてもお金持ちの篤志家でもいなければ、実際には私設図書館など構想はあってもなかなか実現はしない。それにアメリカ等では事業で成功した人は財団をつくり、いくつかの事業とかに寄付をするのが普通だが、日本ではそういう慣例はあまりない。

また、そういう寄付をした人にさらに贈与税がかかったりする。せめて寄付に贈与税がかからず、無税にならなければ、安易に寄付もできない。

作家・司馬遼太郎氏の集めた資料とか、大宅壮一氏の集めた週刊誌や雑誌を集めた資料館というか図書館があり、コピーサービスもしてくれるとか聞いたが、なかなかそれでも大変であろう。

インターネットでなんでも見つかるかといえば、さすがにアインシュタインの全集はまだ編纂の途中だと思うが、出版された部分の全集はインターネットで無料で見れるようになっているらしい。しかし、他の学者、例えばHeisenbergなどはまだであろう。これは著作権の問題があるので、しかたがないのかもしれない。

(注) 私の持っている独和辞典では「思い切ってあるものを買う」とある。


冬の日差し

2013-02-10 17:16:47 | 日記・エッセイ・コラム

今日は日曜で、午前中はコタツに入って新聞を読んだ。冬の日差しが部屋に入ってきて、暖かかった。

毎日曜日には新聞には書評があって、その書評を読んで本を購入することはまずないのだが、それでも読むのを楽しみにしている。

もっとも私みたいな人が大部分だとすれば、書評はどういう風に役に立っているのだろうか。

先日もMITの物理の教授が書いた物理の本の書評が出ていたことがあった。これはテレビとかインターネットでも有名な印象的な物理の講義をする教授である。

その授業のありさまをテレビで1回だけ見たことがあったが、その後シリーズで放送があるのかと思ったのだが、少なくとも私はそのシリーズのテレビ放送を見ていない。

テレビでは老人も子どもも教室に来ていたように思う。

新聞の書評欄では、大きな振り子に大きな鉛の重りをつけて自分が振らせて、その振り子が振動して戻ってくる場所に立っているという実験をするという紹介がされていた。自分の顔の手前まで振り子の重りを持ってきてそこで手を放せば、エネルギー保存則からは絶対にその振り子の重りが自分にあたることはない。

これはもちろん理屈ではわかっているのだけれども、私などは多分たじろいでしまうだろう。

それは理論と実際の経験における恐怖感とは違うということだと思っているが、こういう実験をやってみせれば、その印象はとても強く、エネルギー保存則(くわしくいえば、力学的エネルギー保存則)はその実験を見た人は一生忘れないであろう。

合理的とか科学的ということと感情とか気持ちとかいうことは同じではないということを指摘したのは武谷三男である。

透明なガラスの瓶に密封した糞尿を食卓の上に置いたりすれば、それを見て人は不快感を抱く。それは絶対無害だし、においもしないと言ってもダメななどと述べてもダメだ。すなわち、科学的とか合理性の問題ではない領域があるということである。

原子炉だって絶対安全だから、それを怖がったり、不安に思うのは科学的な素養が足りないのだとは強弁はできないのだということで、この例を挙げられた。

そういう話といまの大きな振り子の実験とは同じではないが、ちょっと似ていると思ったりしたが、本当はどうなのだろうか。


著者と編集者

2013-02-09 14:49:21 | 本と雑誌

本ではないが、日本を代表する建築家の一人、松村正恒さんのエッセイを編集者として直したり、その意とかを尋ねて少し補足したりしたことがある。とても畏れ多いことである。

これは私の高等学校時代の先生だった、竹本千万吉先生が出していた、雑誌「燧」の原稿として松村さんに寄稿をお願いした時のことである。松村さんには自分の尊敬している数人の人についての文章を書いた頂いたのだが、私が読んでわからないところがあったからである。

これは一つには松村さんの生きてきた時代と私との世代の差が彼の書くものを理解しがたくしていたのだと思う。それで松村さんが当然のごとく書いてあることを理解できなかったところがいくつかあった。それで仕方なく、あるときに時間をとって、彼の建築事務所を訪れ、直接にその意を尋ねたことがあった。

これは感覚が時代によって違っているので、言葉づかいは同じであっても全く違って理解されていることを思い知った。彼の説明を聞いて「ああ、そうだったのですか」と理解はしたもののそれでも若い人には理解してもらえないと思うので、「書き直してもいいですか」とか、「補足的な説明をいれてもいいですか」と言わざるを得なかった。

それに対して松村さんは「ああ、いいですよ」と寛容であったので、助かった。

いつも思うのだが、文章を書いた人は自分なりの思い入れがあり、その文章に書いた以上に説明が必要だとは思わないことが多い。これは人のことを言っているのではなくて、私自身がそういう風であるから。

ところが、自分の書いた文章でも3か月、半年、または1年も経つと自分がどういうつもりで書いたかを覚えているわけではないので、あれっ、この文章で何を言いたかったのだろうと思うことがしばしばある。

それで私はこのブログの文章でもまた読み返す機会があれば、どしどし修正をしている。もちろん、これは後日の付記とか以外での話である。そうしないと、他人にはわからないことが多いだろう。

私はあまり本を書いたことがないので、編集者が私の文章について疑問を述べられたりするという機会をまだあまり持ったことがないのだが、それでも著者に対して編集者が大きな役割をはたしているだろうということを推測することができる。

編集者が読んでひっかかる文章は、そのまま出版しても本の読者には理解をしてもらえないだろう。


シャンソンの響き

2013-02-09 11:26:04 | 日記・エッセイ・コラム

昨日、「雪が降る」というシャンソンについて触れたが、そのときに原語のフランス語の方が日本語の歌よりもなんだか胸にジーンとくると書いた。

それがどうしてなのかそのときにはわからなかったが、このフランスの歌を何回かインターネットで聞いているうちに多分それは脚韻等がうまく響きあっているせいではないかと思うようになった。

その感覚が本当かどうかはわからないが、やはりそういうことはありそうである。もっとも訳詩の方だって、そういうことまで勘案されて訳詩ができているかもしれない。しかし、そこら辺は私にはさだかではない。

それと基本的にフランス語と日本語との音声の違いがある。これは子音と母音のつながりが多い日本語とか、イタリア語等と子音の多いフランス語とではやはり基本的に響きは違うであろう。

それが私に違った感覚を引き起こすのかもしれないと思っている。

「雪が降る」をインターネットで見た(聞いた)ついでにイヴ・モンタンの「枯葉」もやはり聞いてみた。これは過去の愛を歌ったものなので、まるでフランス語の動詞の半過去のいい練習になるように思われた。なんだか趣のない無粋な話ですね。

しかし、いつかとりあげてみたい。


雪が降る

2013-02-08 12:00:57 | 日記・エッセイ・コラム

ふつうは雪など降らない松山でも午前中にちらほらと雪が降っていた。

それで思い出したのが、「雪は降る、あなたは来ない」というシャンソンである。フランス語では雪が降るはIl neigeというが、このシャンソンの歌詞ではIl neigeとは言っていない。

Tombe la neige. Tu ne viendras pas ce soir.(トーンブ ラ ネイジュ、テュ ヌ ヴィァンドラ パ ス ソワール)

このシャンソンは男性歌手のアダモの持ち歌だったかな。普通の語順なら、la neige tombeだろうが、歌だからこれが倒置されている。それに普通はil neigeというので、歌だから、特別な言い方をしているのかもしれない。

viendrasは親称の2人称venirの未来形(?)であり、語幹viendが特別である。

そういえば、数年前にドイツ語のクラスのメンバーのTさんに頼まれて、この曲のフランス語の歌詞にフリガナで発音をつけてあげたことがあった。

このTさんはギターをもってヨーロッパを旅行しては、ところどころの町の広場とかでギターの演奏と歌を披露するという趣味をお持ちの方であり、かつまた写真とることを趣味とする高尚な方である。

上の「雪が降る」の歌詞もインターネットで確認をすればいいのであるが、記憶に頼って書いたので間違いがあるかもしれない。

このブログを書いている今では空は晴れて、雪はもう降っていない。

(付記1)清岡智比古先生によれば、venirは共通活用語尾グループに属する、活用変化をする、動詞である。清岡智比古先生の動詞の変化グループの分類はわかりやすい。

1) er 動詞(動詞の95%以上)

2) 共通活用語尾グループの動詞

3) 不規則変化グループの動詞 

      ( 3)はaller(行く), avoir(もっている),^etre(ある、である)の3個だけ)

(付記2) いまインターネットを検索してみたら、アダモは女性歌手ではなくて、男性歌手だということが判明したので、あわてて女性歌手と書いていたのを男性歌手に修正しました。

いつかテレビのフランス語講座の放送で聞いたときは女性歌手が歌っていたのですが、これはだからアダモではなかったのですね。これだから素人はいけませんね。自戒します。

またアダモは日本語の歌詞でも歌っている。日本語の発音もいいですね。ですが、やはりフランス語で聞いたほうがなんだか胸に迫るものがあります。


あまり聞かない言葉

2013-02-07 13:08:44 | 外国語

あまり聞かない英語の幼児語だというが、今日初めて知った。

ラジオを聞くともなしに聞いていたら、ウンチをnumber two,おしっこをnumber oneというと言っていた。そしておもらしをaccidentというと言われていた。

この英会話の放送を私が聞いているわけではない。私は典型的なながら族である。たまたま聞いただけであるが、そういう風にいうのかと目から鱗が落ちた。

ドイツ語では「おしっこをする」というのを幼児語でpipi machen(ピーピー マッヘン)というが、こういう言葉はさすがに40年以上もラジオとかテレビのドイツ語の入門講座の放送を聞いたり、見たりしているが、たった一回聞いたことがあるだけである。

それもそういう表現はドイツへ行く前には知らなかった。その後、ドイツへ行ってから、先輩の日本人から聞いてこの表現を知ったが、この先輩も誰か子供が使っているのを小耳にはさんだだけであったので、bibi machenと発音が正しくなかった。

さすがにこの表現は古い独和辞典には載っていなかったが、新しい独和辞典には載っている。


外交のヒント?

2013-02-07 11:35:07 | 国際・政治

いま、日本にとって中国が話題となっている。その多くはあまり好ましいものではないが、ここでこんなことを考えてみた。これはあくまで一つの考えに過ぎないので、実現が可能かどうかはわからない。

それは最近中国の大気汚染が深刻であるということである。ニュースによれば、PM2.5とかいう微粒子が大気汚染の根源だとかだそうである。

そしてこの大気汚染は中国の国民の中で約6億の人が影響を被ると聞く。それだけではなく、影響はそれほどではないものの日本にも影響を与えている。

それで、日本の大気汚染の防止技術が本当に先進的であるのなら、その技術を無償で提供することは考えられないのだろうか。

こんなことを書くと今のような中国政府や中国軍の日本の領土を脅かすような状況で何を言い出すのだとお叱りを受けそうである。

中立的と思われる新聞とか、テレビとかもなかなか中国には厳しいこのご時世である。だからこんなことを言い出すとなんてやつだと思われかねない。

このブログがもしかして、そう思うような人たちに攻撃されるのは本意ではないので、このブログの読者が冷静な判断をされる人たちであることを願っている。

おかしな主張だと思われる方が出るとは思うが、これは一連の領土論争とかその他の中国の行動をも考慮に入れた、それの緩和策のつもりである。

あまり詳しくは述べられないが、そういう考えを持つ知恵のある人が政治家とか外交官とかその他の各界から出てほしいと考えている。


お恥ずかしいが

2013-02-06 12:49:02 | 外国語

お恥ずかしいが、昨日ようやく認識したことがある。ドイツ語のある表現である。

彼は大学時代の友人です、と言いたいときに、

Er ist ein Freund in (auf) der Uni

と私は言っていたのではないかと思う。

ところがどうもドイツ語では

Er ist ein Freund aus der Universit"at.

とaus der Uniを使うらしい。こんなことも知らないで何年私はドイツ語をやっていたんだろう。

お恥ずかしい次第である。


Pauli行列の導出

2013-02-06 12:34:24 | 物理学

Pauli行列とは少し物理を学んだ人ならだれでもよく知っている、3組の2行2列の行列(マトリックス)である。しかし、このよく知られた行列の形をどうして決めたのかはあまり書いている本を知らなかった。

それで昨年の夏ころだったかそのことを調べてみたいと思うようになった。それをマルゲナウ=マーフィの物理数学の本(「物理学と化学のための数学」(共立全書))で調べてノートをつくった。このときに使ったのは\sigma _{3}の形とPauli行列の満たしている交換関係であった。

それで、一応目的を達したのだが、昨夜朝永振一郎さんの「角運動量とスピン」(みすず書房)を引っ張り出して見たら、彼は反交換関係を使っていた。もちろん、\sigma _{3}の形を用いている。この場合には計算は交換関係を使うよりも少し簡単である。

もっと早くこの本を見るべきだったかもしれないが、「角運動量とスピン」を見なかったために他のPauli行列の決め方を知ったのだから、まあいいとしよう。

それにしてもさすがに朝永先生がちゃんとこのことに言及していたとは知らなかった。

もっとも2行2列の独立な行列は4つの要素のどこかの1か所だけ1で残りの要素は0である、この1次独立な4つの行列から出発してPauli行列と単位行列を決める方法があるのではないかと思っているが、その考えとどうやって折り合わせるのかまだわかっていない。

これは昇降演算子(スピン・フリップ演算子)との関係が表に出てくるのだろう。

この方向でのノートはつくっているが、まだもう一つ明確ではない。

(付記) このコラムを書いた後で、書棚にあったMerzbacherのQuantum Mechanics (2nd ed) (Wiley) p.269-270を見たら、Pauli行列の決め方が書いてあった。

もっともこれは朝永さんの方法とも少し違っていて、私がすぐ上に書いた昇降演算子(スピン・フリップ演算子)と関係した求め方のようだが、いまは詳しく調べる暇がない。

(2014.4.12付記)  少し時間ができたら、これらのPauli行列の導出をまとめておきたいと思っている。もっともまだ1か月以上日月がかかるかもしれない。


puzzle of motivation

2013-02-05 10:45:41 | 社会・経済

昨夜のTEDカンファランスはダニエル・ピンクのpuzzle of motivationであった。これは本当は経営者の人に見てもらいたかった、内容である。

会社で業績を上げるのに報酬を上げることは役に立たない、むしろ害となる、ということを述べることが主眼であった。そしてピンクはこれは哲学的な思想でもなく、「科学的な事実」This is a scientific factであるという。

どうしたらより早く目的を達成できるかということは、もともとは心理学的な実験からはじまったらしいが、これを実際の会社でもそうだと言っていた。

もちろん、ある程度十分な給料を従業員に支払うことは必要なのだが、それで十分で、過分の報酬を支払う必要ないのだという。

ピンクの会社の経営方針の勧めは

Autonomy, Mastery, Purpose (自主性、熟達、目的)

を主に据えるといいという。特に自主性を発揮させることが大事だという。いくつかの会社の例でも25%を自分の好奇心とかにまかせて自由に仕事をやらせたほうが、厳格に管理した仕事をさせるよりも業績をあげているという。

または、月または週に、数日を社員の自由にさせるとかが重要で、会社の業績をあげることは必ずしも給与をあげたり、その報酬で業績を上げさせようとしたりすることではなかった。

これは経済学者の会社再生の処方とは矛盾しないのだろうか。政府が税制的な優遇措置をして、産業を振興させるというのはある意味で報酬主義ではないのか。

会社の経営にはアメとムチからは決別すべきだというのである。これはある意味で目から鱗が落ちた。こういった観点から経済学とか産業の振興を考える経済再生を考える経済学者が出て来てほしい、そう切に望んでいる。

放送の後で、Joi ItoさんがMITのメディアラボのモットーとして

uniqueness, impact, magic (独特さ、影響力、マジック)

を上げているという。これも上のピンクの主張と同種のアイディアであろう。

rowという語が途中で出てきたが、その意味がわからなかった。いま辞書を引いてみると、喧嘩とか叱責という意味がある。これはアメとムチのムチの方を意味していたのだろうか。

アメとムチのムチがrowならば、アメはrewardなのだろうか。ピンクの英語の講演からはこの語を聞きとることは私にはできなかった。

(2013.6.10付記) rowとcolumnというと数学の行列(マリトリックス)で行と列をそれぞれさす。この意味でなら、rowという意味を学生時代から知っていた。

columnは元々は円柱を意味する。ヨーロッパの建築などで建物の正面にある円柱などはさしずめcolumnであろう。新聞連載の特別記事をコラムという。columnistとは新聞のあるコラムの担当者だという。

ちなみマトリックスとは子宮とか字母とかいう意味が原義であるらしい。いまではマトリックスと言えば、行列という数の集まりを指す。

いま独和辞典を引いてみたら、Matrixには子宮という意味は載っていなかったが、これはラテン語らしい。

言葉にはいろいろの広がりがある。


反復 ?

2013-02-04 16:45:05 | 数学

昨夜遅くコタツでいままで四元数について、自分でつくったノートを読み返したり、そのノートをつくったときに考えてはいたが、書き込んでいなかったことをそのノートに書き込むなどの整理を少しした。

ところが整理を行っていると、同じような計算を何度も行っていることに気が付いた。記号が違ったりしてはいるけれども、本質的に同じことである。もちろんそれぞれに時間が空いているので同じような計算を何度も繰り返していたということにも気が付かなかった。

これは意味のあることだったのだろうかと気になった。それぞれのすべてに意味があったことだとは思えないが、それでも時間を隔てて似たような思考を繰り返していたらしい。

これはもちろんそのときどきに読んでいた本とか論文の一部の計算を自分で確かめるため等であったろう。

そして、そのことから、なかなか本質へと進まなかったことが考えられる。でもそれでも全く無駄だったのかと問われるとむげにそうだとも断定しかねる。しかし、どうも頭の切れの悪い人間の典型がここにあると思われた。

約半年の空白を経て、ようやくすこしづつ四元数についての新しいエッセイの入力をはじめている。もちろん、文章を書き始めてからの苦悩の方が大きいのだが、半年前にはまったくどこから手を付けてよいやら見当もつかなかったのが、自分の頭の中でようやく収束をしはじめたと感じている。


私のフランス語修業21

2013-02-04 12:01:47 | 外国語

妻が土曜日に知人と松山市北條の海岸にある道の駅の「ふわり」に行ったときに買って帰ったケーキを昨日の日曜の朝食後に食べた。

そのケーキの包装部分に何か書いてあるようだったので、それを取り上げてよく見た。そうすると書いてあった文がつぎの文であった。

 Qui m'aime aime mon chien.(キー メイム エイム モン シァン)。

これを読んだときにquiという語ではじまるので、疑問符がどうしてないのと一瞬思った。しかし、よく考えてみるとこのquiは疑問詞ではない。

正しい訳かどうかはわからないが、訳をつけてみると

 私を愛している人は私の犬が好きだ

となろうか。これは気の利いた小文であり、なんだか微笑ましくなる。自分の愛する女性に近づこうとしてまずは彼女の犬に気に入られようとした、若い男性の行動が目に浮かぶようだ。

それはそうとして、先日これはNHKのラジオフランス語講座の藤田裕二先生の放送で小耳にはさんだことだが、これはフランス語の半過去に関してである。

フランス語の過去にはいろいろあるが、半過去imparfaitと複合過去pass'e compos'eとがその中で主なものである。(imparfaitアンパルフェには形容詞として不完全なという意味がある)

複合過去はある時点で終わっている行為をさすというが、半過去の方がなかなかむつかしい。

それを何度となくラジオのNHKのフランス語講座で聞いてきたのだが、どうも頭に残らない。

それがなるほどという説明を聞いたのだ。半過去の半とは半ばということである。だから完全に過去のこととして終わっていないことを指すのだという。

それで半過去は過去のある時点でまだ続いている動作や状態を表すのだという。頭にすっぽりと落ち込んで落ち着いたというか納得した。

それ以前のフランス語の先生方の説明が悪かったということではない。複合過去をある直線上のある一点だとすれば、半過去はその直線上のある区間をもった、線分だという説明をされた先生もあった。フランス語の先生方もいろいろ工夫をされておられる。

それでもなかなか私の頭に複合過去と半過去とがきちんと区別されていなかった。フランス語先生方、申し訳ありません。これはひとえに先生方の問題ではなくて、私の方の問題でしょう。


Los Alamos

2013-02-02 12:05:06 | 外国語

Los Alamosとはアメリカの国立物理学の研究所の一つで、原爆を作った研究所のあるところとして有名である。

どんなところかは行ったことがないのでわからない。私の知っている、物理学者OさんはそのLos Alamosの研究所に留学していたらしいが、その話を彼からは聞いたことがない。

Oppenheimerが若い少年のころにこのあたりに休暇でなんか来たことがあるためとか、または近くに砂漠があって、人里離れたところであまり人が来ないところだったので、原爆を秘密裏に開発する適当な場所としてこのLos Alamosが選ばれたとは何かの本で読んだと思う。

ところで、このLos Alamosはスペイン語であろうが、いつだったかどこかでちらっとこれは「ポプラ」を意味すると読んだ気がする。しかし、私はスペイン語の辞書をもっていないので、それを確かめるすべはない。

別にこのLos Alamosとは関係がないかもしれないが、物理学者のテラーのことを思い出した。彼は水爆を開発したことで知られている。また、オッピー(Oppenheimer)との確執でも知られている。

それで私はあまりテラーのことをよくは思っていなかった。どうも悪魔の化身かなにかのように。そのイメージが少し変わってきたのは、ノーベル賞受けた物理学者のC.N. Yangがこのテラーのことを書いているのを読んでからである。

テラーはハンガリー出身の物理学者であり、かつ登山の愛好者であった。学生時代のあるとき登山に出掛けるため、電車にあわてて乗ろうとして電車事故を起こし、足が不自由になってしまったという。

また、彼の群論に対する理解はとても直観的なものであったという。そういう理解をテラーがどこかに講義ノートとかにまとめてくれているかどうかは知らない。

テラーをそういう人とYangが理解していたこととか、実はYangの博士論文の主査にテラーがなってくれたとか等を聞いて少しだけテラーに対する偏見が減少するのを感じた。

完全にテラーに対する嫌悪感が消えたわけではないけれども。