物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

おんまく花火大会

2016-08-08 12:14:25 | 日記
昨夜 I 市の花火大会で花火を見てきた。I 市に里帰りするは2か月ぶりくらいだろうか。もっともおんまく花火を見るのは10年以上前以来である。

なかなか花火は華やかだったが、それを見ているうちに1945年8月初めの I 市の空襲を思い出した。空が赤く燃えてもちろん近所の家も燃えていた。焼夷弾が落ちてくるのを見たわけではないが、田んぼを隔てた Y さん宅に焼夷弾が落ちて家が燃え出すのはまざまざと思い出す。そこかしこに焼夷弾が落ちて瞬く間に市中は大火事となった。

次の日には田舎の親戚の家に避難したが、そこにはあまり長くはいなかった。数日して島の母の実家に近い親戚に小学生の次兄と二人で疎開させられた。私はもちろんそのときには就学はしていない。小学生になったのはつぎの年の1946年のことである。

そのうちに広島に原爆が落とされたことも口づてに伝わってきた。来ている衣服も白くて光を反射させるものを着ることとかいう注意も口づてに聞いた。

原爆というコトバはまだなくて広島の町の四里四方の広さが被害にあったということで「四里四方爆弾」という風にその当時は呼ばれていた。

話が大きくそれてしまったが、現在、山崎正勝著「日本の核開発:1939~1955」(績文堂、2011)を読んでいる。この書では核開発という語で原子爆弾の開発を意味するが、それについての真に詳細な科学史の書である。わたしはこれは名著だと思うが、これを読んでその真価がわかる人がどれくらいいるだろうか。

(注)残留放射能の危険性をはやい時期に政府が人々に警告を発して知らせていたら、多くの人の残留放射能被害を防げたのではないかと山崎さんは書いているが、そのようなことが実際に可能だったろうか。少なくともあまり緊急に用のない人は広島市内に立ち入ること禁止とのお知らせを出したとしても8月6日以降に市内に立ち入った多くの人は知人や親せきを探して入市したわけであり、用がなかった人とは言えない。

確かに、広島を被爆直後(8月8日)に調査にした仁科芳雄博士は残留放射能のことを心配していたらしいし、そのことを知っていたろうが、それでも自身もその残留放射能のせいかどうかはわからないが、数年後には亡くなっている。広島に飛んで行った飛行機のパイロットには飛行機の外に出るなと指示していたらしいし、できるだけはやく飛び立てと指示を与えていたらしい。

リオでのオリンピック始まる

2016-08-06 12:51:44 | 日記
リオ・デ・ジャネイロでのオリンピックが日本時間の午前から始まった。午前中はテレビで開会式の中継を見ていたので、今日は仕事場に来るのが、午後となった。

リオとはポルトガル語で川を意味し、ジャネイロは1月を意味すると誰かから聞いたことがある。すなわち、1月の川という意味だと聞いた。

リオで有名なのは2~3月にある、真夏のカーニバルである。その山車は延々と続き、踊り子がサンバを所狭しと踊る。そこに行ったことはないが、映画とかテレビでは何度も見たことがある。今日の開会式もそのようなサンバの行列が最後の方にあった。

今回のリオのモットーはエコらしく、木のタネを参加選手が1粒づつもってそれを鉢に植えて、それをもとに森をどこかリオの近くにつくるという雄大なストーリーをもって開かれたらしい。

今年競技に参加した選手たちが何十年か先に植林されてできた、その森を訪れる様子を想像すると楽しくなってくる。

軽い二日酔い

2016-08-05 11:19:52 | 日記
8月3日に久しぶりにしたたか飲んだので、軽い二日酔いになった。

それで、昨日は10時過ぎに自宅に帰って一日を寝て過ごした。夕方には元気になったが、今朝も脈拍が少し早いような気がする。妻がちょっと心配そうであったが、何かあったら連絡すると言い残して仕事場に来た。

大体、日常では思い出したように1週間に1回か数週間に1回くらいの頻度でたまに夕食にワインを数杯飲むくらいであまりアルコールとは縁がない。ビールはあまり好きではないし、飲み物はワインと決めている。

それが8月3日は N さんを偲ぶ会ということでちょっと普段よりも多く飲んだ。それもビールからはじめてワイン、日本酒、ウィスキーとそれぞれは量はあまり多くはないが、参加者がそれぞれ持ち寄ってくれたものを飲んだ。あまり準備はいらなかった。いつも食べているソーセージを少し余分に買って、それに普段は食べないハムを買ってきたので、それを焼いてみんなで食べながらの会であった。少し若い O さんがホットプレートで焼いてくれた。

なかなかいろいろの話が出て来ておもしろかった。参加者は6人、私も入れて7人であったろうか。

飲物が残ったので、もう一度同じメンバーで会をする必要がある。

Nさんの追悼会

2016-08-04 00:02:21 | 日記
を関係している、人たちで密かに行った。これはごく親しくしていた人たちで行ったのだが、それでもこのためにワークショップを開いてくださった T 教授には感謝の意を表明したい。

もともと N さんは自分の病気のことを秘密にしておきたいと思っていたらしく、そのいきさつを知っていた人は少ないらしかった。これは N さんが秘密主義に徹していたのどうかはしらない。また、秘密主義に徹する理由もわからない。

それはそれで一つの生き方だと思うので、とやかくいう気もしない。私自身も昨夏の安保法制の反対の集会とデモで出会ったのが最後であった。そのときに顔を見たけれども特に言葉をかわすこともなかった。

というのは彼は私とはもう別の世界の住人になったという気がしたからである。私は平凡な一研究者であり、彼はもう功成り名遂げた学者だという雰囲気をもっていたからである。

それは昔の野党的な雰囲気をもった N さんではなかったと思う。本人は私からなにか言葉がほしかったのかもしれないが、私からは何か言葉をかける気がしない雰囲気があった。それは私の単なる思い過ごしかも知れないが、そういう思いをさせる何かがあったと思う。

それは本当のところは私の思い過ごしであったかもしれないが、彼とはかなり深いところで付き合って来たので、その最後の出会いの時点では少なくともわだかまりなく口をきくという感じはまったく持てなかった。

人はその人の生きざまを見ている。だから、元の昔に返えろといわれてももう帰ることはできない。

これは私の感慨であって、彼の門下生だとか他の人には通じない気持ちであろう。ワークショップでの彼の門下生からは特に彼に批判的な話は出なかった。門下生であるから批判的な話をしないのは当然であろうが、本当のところはどうなんだろうと思ったが、どうも本音のところでも批判的な気持ちはなかったようである。

先生としてはそうなんだろうが、一人の研究者としてみた場合には果たしてどうなんだろうかというのが私の正直な気持ちである。権威におもねらないという風にいいながら、結構権威におもねっていたのではないかという印象を私自身の見聞きした経験としてもっている。

具体的に言えば、「学位をとればその先生から積極的にはなれろ」と言うのが彼の主張であったが、私には全くそうは思えなかった。そして、そのことをまったく自分でも意識していないとは何事かという批判的な気持ちを抱く。ただ、いきさつを知らないで、そのような彼の言説を聞いた人からはなんてすばらしい人なんだろうという賛美の声を聞いたことがある。ただ言うことと自分のしたこととはまったく違うのではないかという印象をもっていた。

入力ミス

2016-08-03 12:49:12 | 日記
よく入力ミスをする。それも一年も経って気づくということだから、度し難い。もちろん気づいたら、修正をしておく。

つい最近のミスは地球公転の観測的根拠としての「年周視差」の字をまちがえて入力していた。もちろん後ろの方ではきちんと正しく入力されていたから、単なる入力ミスであることはブログを読まれた方にはわかるのだろうが、とても恥ずかしい。

原稿を書いた後で、いつも見直しをするのであるが、それでも入力ミスとか書き間違いはなくならない。これはブログではなく、他のところに発表するエッセイを書くときにもまちがいをよく起こす。

入力ミスではないが、毛沢東は自分の論文を手直しをして著作選集に収録していたとかどこかで昔読んだことがある。それはそれでいいとは思うが、記録としてはちょっと困るのではなかろうか。

物理学者の朝永振一郎さんはかつて学術雑誌に発表した論文をご自分の論文集に収録したときに全部手を入れて修正をされたとかである。このことはどこかに物理学者の亀渕進さんが書かれていた。

だから、彼の主張としてはより首尾一貫したであろうが、記録としてはすこし変わってきたのは残念でもある。そういう風に完璧主義の方もいれば、文献の記録としての重要性を重視して、そのままで著作集に残す人もある。そうすると、一時的なそのときの勢いが色濃く残ることにはなるが、それを後世にとやかく言われることにもなる。

前にも書いたかもしれないが、武谷三男の戦後の論説とかはそれで現代の評論家や学者たちにいろいろ言われる原因となる。それでもそのまま残してあるというので、ある意味でその人の節操がわかるということでもある。

「お前はどうか」と問われれば、私はどちらかといえば、朝永タイプであり、修正をしたいと思う方である。もっとも私の書くことには別に思想の節操を問われるような内容はないので、いつでもよりいい表現にすることを優先している。

一年経つのが早い

2016-08-02 11:25:48 | 日記
昨年の今頃は原田正純さんの『水俣病』(岩波新書)の一部を書き写していた。これはもちろん武谷三男に関係した部分を書き写していたと思われる。

そろそろ徳島科学史研究会での講演の準備をしなくてはいけないのだが、全く準備ができていない。何を話すかその準備ができないのだ。今年は8月20日と少し早目なのでもうそろそろ構想ができてもいいのだが、まるきりである。

こんなことは珍しい。それは対象にした人たちの言論を私がどうとり扱うかという視点がなかなか定まらないからである。対象としている人は加藤哲郎、伊藤康彦、中村静治の3人であるが、一挙に3人を一度にとり扱うのが難しいので、まず加藤哲郎さんの『日本の社会主義』から議論したいと思っているのだが、なかなか考えがまとまらないというか、考えが出てこない。

9月に発行する『数学・物理通信』の方は原稿が半分くらい集まっている。だが、2号の発行としてももう少し原稿がほしいところである。自分でいくつかのテーマを考えているが、それがまとめることができるかどうかはわからない。




地球の公転の証拠は

2016-08-01 09:42:36 | 物理学
何かと尋ねたら、年周視差であると答えることができる人は中学校や高校の理科の先生や一部の研究者を除いてあまりいないだろうか。

このようにここに書いている私も何十年か昔にNHKの教育放送(いまのEテレ)で地球物理学者の竹内均先生が地学の講義で説明をしているのを見て初めて知った。年周視差の話は私の学んだ理学部の物理学科の講義には出てこなかったと思う。

一方、地球自転の実験的な証拠はいうまでもなく、フーコー振子の実験であり、フーコー振子の振動面が時間とともに変わることから地球の自転していることが実験室で示された。私の知っているところではフーコー振子は上野の科学博物館で実際に動いている。

E大学の教育学部にも私が勤め始めた50年くらい前にはフーコーの振子が動いていたが、いまではもう動いてはいない。数年前に妻と長崎を訪れたときに、日本一のフーコー振子があるという、お寺を訪ねて実際に見せてもらったが、フーコー振子は訪問者がないともう動かしていなかった。費用もかかるので。

そして、もちろん観覧料が500円だかいくらか忘れたが、とられた。この寺の島津製作所が製作したフーコーの振子はそしてもう日本一ではなくなったとそのときに聞いた。そのお寺は大仏像があり、その中にフーコー振子が収められていた。ということをいつかこのブログで書いたことがある。

こんなことを書いたのは最近、県立図書館で借りてきた、科学史の読み物にフーコーのことが書いてあったからである。フーコーは正規の教育を受けたことがない人ではあったが、三角関数の知識をもった人であり、それがフーコー振子の実験に役立ったらしい。

東京大学の医学部を出て、帝京大学の医学部の教授となった人がこの科学史の本を書いていて、他の記述でも2,3のことを初めて知ったし、科学者の人柄も大分詳しく書かれていた。それによるとガリレイにしてもニュートンにしても人柄というか性格はかなり付き合いにくい人柄であったらしい。

ガリレイは望遠鏡でいろいろの天体を見てそのことで地動説を支持していたことで、そのことでパドヴァ大学の終身教授の地位を手に入れたらしい。また、物体の自然落下の法則は若いときの彼の業績だが、それを世間に知らしめた「科学対話」はごく晩年の書であるという。