昨夜 I 市の花火大会で花火を見てきた。I 市に里帰りするは2か月ぶりくらいだろうか。もっともおんまく花火を見るのは10年以上前以来である。
なかなか花火は華やかだったが、それを見ているうちに1945年8月初めの I 市の空襲を思い出した。空が赤く燃えてもちろん近所の家も燃えていた。焼夷弾が落ちてくるのを見たわけではないが、田んぼを隔てた Y さん宅に焼夷弾が落ちて家が燃え出すのはまざまざと思い出す。そこかしこに焼夷弾が落ちて瞬く間に市中は大火事となった。
次の日には田舎の親戚の家に避難したが、そこにはあまり長くはいなかった。数日して島の母の実家に近い親戚に小学生の次兄と二人で疎開させられた。私はもちろんそのときには就学はしていない。小学生になったのはつぎの年の1946年のことである。
そのうちに広島に原爆が落とされたことも口づてに伝わってきた。来ている衣服も白くて光を反射させるものを着ることとかいう注意も口づてに聞いた。
原爆というコトバはまだなくて広島の町の四里四方の広さが被害にあったということで「四里四方爆弾」という風にその当時は呼ばれていた。
話が大きくそれてしまったが、現在、山崎正勝著「日本の核開発:1939~1955」(績文堂、2011)を読んでいる。この書では核開発という語で原子爆弾の開発を意味するが、それについての真に詳細な科学史の書である。わたしはこれは名著だと思うが、これを読んでその真価がわかる人がどれくらいいるだろうか。
(注)残留放射能の危険性をはやい時期に政府が人々に警告を発して知らせていたら、多くの人の残留放射能被害を防げたのではないかと山崎さんは書いているが、そのようなことが実際に可能だったろうか。少なくともあまり緊急に用のない人は広島市内に立ち入ること禁止とのお知らせを出したとしても8月6日以降に市内に立ち入った多くの人は知人や親せきを探して入市したわけであり、用がなかった人とは言えない。
確かに、広島を被爆直後(8月8日)に調査にした仁科芳雄博士は残留放射能のことを心配していたらしいし、そのことを知っていたろうが、それでも自身もその残留放射能のせいかどうかはわからないが、数年後には亡くなっている。広島に飛んで行った飛行機のパイロットには飛行機の外に出るなと指示していたらしいし、できるだけはやく飛び立てと指示を与えていたらしい。