渡辺恒雄の後継者、宮崎信行の国会傍聴記

政治ジャーナリスト宮崎信行、50代はドンドン書いていきます。

簗瀬進さんが次の参院選(全国比例)出馬に初名乗り 輿石会長「また晴れる日が来る」

2011年06月26日 15時02分49秒 | 第23回参院選(2013年7月)二番底

[写真]第23回参院選全国比例出馬を表明する後援会大会が成功し、支援者と握手する簗瀬進さん、20116月25日、宇都宮市、宮崎信行撮影。

 2011年(平成23年)6月25日。栃木県宇都宮市に行ってきました。宇都宮線(東北本線)沿線は前日は摂氏38度近くあったと思いますが、この日は、小雨交じりで涼しく、私も1年ぶりにゆったりと都外に出て、気持ちよかったです。

 前民主党参院議員の

 簗瀬進(やなせ・すすむ)さんが、2013年夏(6月ないし7月?)の第23回参議院議員通常選挙に民主党公認候補として全国比例から立候補する意向を表明しました。第23回参院選への出馬表明は、現職・前職・新人問わず、簗瀬さんが初めてだと思われます。


[写真]第23回参院選で全国比例への出馬を表明する簗瀬進さん、2011年6月25日、宮崎信行撮影。

 この日の会合は、「やなせ進後援会」の大会として開かれ、民主党参院議員会長の輿石東さんらが出席しました。民主党栃木県連の衆院議員、参院議員、県議が4人ほど、市町村議会議員(経験者含む)8人ほども顔を出し、県連全体で、簗瀬さんを全国比例に押し上げようという機運を感じました。

 「やなせ進後援会」大会には200人~300人が参加。まあ、やたらと会合への参加人数で、選挙(前の日常活動)について語る人がいますが、それは意味がありません。まして、本戦まで2年前の後援会大会の参加人数などどうだっていい。大事なのは、コアメンバーの熱気です。で、下の写真のように前列はビッシリ埋まって、熱心に耳を傾けていました。引っ込み思案の日本人、こういった会合では恒例の、司会者の「前の方がまだ空いておりますので、お詰め下さい」というアナウンスも開会10分前に1回あっただけ。「やなせ進後援会」は県会議員だったお父さんが初出馬した昭和30年代から続く組織だということですので、人数も多くなりますが、コアメンバーの「簗瀬さんが好きだ」という意気込みが十分に感じられました。じっくりと2年間、各々が手間暇のペース配分を決めて、後援会作りをしてほしいなあ、と感じました。

 
[写真]前列がビッシリ埋まり、熱心に話を聞く、簗瀬進後援会大会出席者のみなさん。

 簗瀬さんは、毎週月曜日に、JR宇都宮駅・東武宇都宮駅・栃木県庁前で配っている「マンデー・リポート」について、「(1990年の第39回衆院選初当選以来)20年間やってきましたが、落選後3ヶ月間、休みました。しかし、『まさに簗瀬進は進む人だ』と思い直し、昨年10月に再スタートしました」と述べました。ビラ配りでは「今の民主党にタイヘン厳しい声が寄せられています。私も野党時代に、有権者のみなさんに『政権交代をすれば変わるよ』と言ってきたことを申し訳なく思うこともあります」と正直な心情を吐露しました。

 しかし、「市民が主役の民主党という志に変わりはない」とし、「きのうの民主党栃木県連常任幹事会で(きょうの後援会大会より)さきに話してしまったことを(後援会員のみなさんに)おわびしたうえで、みなさまの万雷の拍手によるご承認をいただいて、私・簗瀬進は2年後の参院選の全国比例にエントリーさせていただきたい」と話すと、200人以上の後援会員から大きな拍手を得ました。そして、簗瀬さんは「(6月22日の)会期延長の決議で自民党で賛成した2人のうちの1人と話した。政権交代可能な2大政党制が基本だが、その方と政策横断的な新しいうねりをつくり、新しいみなさんと情報交換していきたい」との国政復帰後の抱負を語りました。

 後援会大会は民主党らしくフルオープンで取材が認められましたが、栃木選挙区から全国比例の転出に辺り、「2枚目(の投票用紙)は簗瀬進、ということで、名前をあげていきたい」としましたが、1人単記式投票ですので、「比例となれば連合のみなさんもそれぞれの産別で応援する人がいるでしょうし、あるいは、私が参院国対委員長として手塩にかけて育てた新人(2007年「逆転の夏」チルドレン)の改選ともバッティングしてしまい、心苦しい面もあります」と正直な感想を述べました。

 そして「やなせ進後援会」を県議時代以来の宇都宮中心から、オール栃木県的なものに広げることにし、その作戦をつくるために「やなせ進後援会の再構築委員会」を設け、委員会座長に後援会の幹事長さんを充て、残りのメンバーは簗瀬さんが少数精鋭で人選し、1ヶ月以内に初会合を開くことが了承されました。

 2つめは、これは全国で闘ううえで大事な、資金面。「タイヘンデリケートな話ですが」と恐縮する後援会幹事長さんから「このような経済状況でタイヘン申し訳ないのでが、今後、後援会員に年に1回、振り込み用紙を郵送させていただきたいと思いますが、よろしいでしょうか」と発案し、これもまずまずの拍手で了承されました。ただ、私なんかの手元にはいろいろな議員からしょっちゅう振り込み用紙は郵送されてきますし、ときには番号入りパーティー券が送られてきたこともあります。簗瀬さんは力があるんですから、もっと自信を持って欲しいと、私は会場で感じました。

 議題の3つめは「やなせ進ネット後援会(仮称)」の設立で、これも了承されました。簗瀬さんによると、新党さきがけを立ち上げたときのネット局長だったそうで、パソコン通信時代の「ニフティ」も、国会議員時代の堂本暁子前千葉県知事・達増拓也現岩手県知事と並ぶ常連だったそうです。また、「政治家がホームページを立ち上げてから、更新し続ける最長不倒記録の保持者だ」とのことです。壇上には、長年のネット上の友人だというシステムエンジニアの人が壇上に上がりました。いきなりハンドルネームで自己紹介したので、会場は一瞬面食らった雰囲気でしたが、「東京から来ました。これまでは選挙区外でしたが、次は全国比例ということで喜んでいます」と笑いを誘いながら、正式な議案として「ネット後援会」の発足が承認されました。

 これに先立ち、やなせ進後援会の会長さんは「雨のときがホントウの友達。(小雨交じりの)きょう来てくれた人が、簗瀬進のホントウの友達として、簗瀬の再スタートを切らして欲しい」と語りました。

 来賓あいさつで、参院議員の谷博之さんは「1年前の簗瀬陣営の総合選対本部長として責任を感じている。政権運営は厳しいけれど、民主党が将来の道筋をつけていく時期で、次ぐの総理がだれかという問題ではなく、党がまとまっていることが大事だ」と語りました。


[画像]谷博之・参院議員。

 あいさつに立った県議のうちの一人は「全国比例となると(連合組織内候補予定者などとの)いろいろな関係があるのは事実だが、簗瀬先生の国政復帰に全力を入れたい」と述べました。

 この後、「民主党のこれから」と題して、民主党・新緑風会の輿石東会長が講演しました。輿石会長は「簗瀬さんと私は1990年衆院選初当選組だが、私は当時本会議場の社会党席から見て、『自民党には元気の良いのがいるなあ』と見ていたが、それは簗瀬進さんと岩屋毅さんだった」と切り出しました。


[画像]輿石東・民主党参院議員会長

 輿石さんは、第1次民主党結成の時に、「社会党から大畠章宏さん(国交副大臣)と私(輿石東さん)、さきがけから五十嵐文彦さん(財務副大臣)と簗瀬さんが出て、4人で政策のすりあわせ」をしたというエピソードを披露しました。輿石会長は「私は日教組の出身です。日教組と聞くだけで鳥肌が立つという人もいるがまぎれもなく日教組の出身。私は日教組という全国的な組織の応援を、選挙区の山梨県内で受けているが、簗瀬さんにはそういった全国的な組織がない」として、後援会の拡大を要請しました。

 輿石さんは「社会党出身の私、自民党出身の簗瀬さんらに加えて、新しい人が加わり、政権交代した。民主党は顔合わせをしたが、心あわせをして、そして、力あわせをしていかなければいけない。今はまだ、心合わせができていない。それが政権交代ある政治の完成につながるとして、『民主党のこれから』という演題へのお答えとしたい」と締めくくりました。そして、「一つ付け加えたい」として「ところで、私は簗瀬さんには歌の巧さでは逆立ちしてもかなわないが、私は美空ひばりさんの『川の流れのように』という曲が好きだ。あの中に「いつか晴れる日が来るから」という歌詞がある。ここにいる後援会のみなさんも「いつか晴れる日が来るから」と信じて、簗瀬さんを支えて欲しい」と語りました。

 ◇

 1990年、初当選。

 1993年春。日本新党の候補者公募に合格した枝野幸男弁護士は、「自分が生まれ育ったところは、当時の栃木1区にあたり、そこには簗瀬進さんや船田元さん小林守さんという(栃木県立宇都宮)高校の先輩たちが現職でいました。そこに割り込んでも勝ち目はなさそうでした」として、「こうして、4月の終わりには日本新党埼玉県第5支部長に就任。トントン拍子に決まったわけです」としています。(枝野幸男著『それでも政治は変えられる』68ページ)。

 同年6月。CP研のメンバーの一人で同期の岡田克也さんが当時住んでいた衆院赤坂議員宿舎を2人の議員が訪問しました。「自民党の政治改革をめぐる反対派との厳しい論議をともに、闘い抜き、ともに与党自民党を離党する決断をした同志、簗瀬進君岩屋毅君である」「2人とは別の道を行くことになった。宿舎の玄関先で彼らを見送るとき、なぜか涙があふれ出た。私自身をふくめ、こうした若手議員の政治改革実現への熱狂は、一体何だったのか。当時を顧みて、熱病にかかったようだったと冷ややかに言う人もいる。しかし、あのとき、私たちはひたすらに日本の政治を何とかしたいと思っていた。政治改革実現のためなら、自らの政治生命を捧げても構わないとさえ思いつめていた」としています。(岡田克也著『政権交代』39ページ)。

 そして、宮澤嘘つき解散、第40回衆院選。

 8月。枝野さんは初当選直後をこう振り返っています。「国会が始まる前に、さきがけと一緒の顔合わせのパーティーが開催されました。(略)高校、大学の先輩でもある簗瀬さんとも再会できました。簗瀬さんには、選挙に出る前にも挨拶だけはしていたのですが、こうして当選してみて、自分がテレビによく出る国会議員の人たちと同じ場にいるのが不思議でした。(略)一緒に駅で電車を待っていたりすると、簗瀬さんは有名人でしたから、よく『頑張ってください』なんて知らない人から声をかけられました。(略)最初のうちは、街を歩いていても声をかけられる簗瀬さんを若干うらやましく思いましたが、最近は私も少しは顔が知られてきて、ときどき声をかけられることがあります」(枝野幸男著『それでも政治は変えられる』114ページ)。

 岡田さんが民主党幹事長、枝野さんが内閣官房長官、一方の同じフロントベンチで、岩屋毅さんは影の防衛大臣(会期延長議決に造反のため辞表提出中)をやっています。 


[画像]首相の進退や通常国会の延長について協議するため総理公邸に入る岡田克也幹事長(左)と公邸前でブリーフィングに応じる枝野幸男内閣官房長官(右)、NHKニュース映像から。

 というわけで、後援会大会後の記者会見で、私が「忸怩たる思いはないか?」と簗瀬さんに質問しました。

 
[画像]記者会見の様子、左から簗瀬進さん、輿石東民主党・新緑風会会長、ネット後援会の担当者の方、2011年6月25日、宇都宮市内、宮崎信行撮影。

 簗瀬さんは、今の政治の主流は「90会(きゅーまるかい)だ」として、「私は肝腎なときにこけちゃった。(政治人生の中で、野党時代よりも)現時点がイチバン辛いです。お酒を飲んでもアルコールが染み渡らない。いっそのこと、(資格を持っている)弁護士になった方が(私の)暮らし向きは楽なんだと思います。でも、政治改革の志を持って政治家になった。かつての自民党や社会党のようなイデオロギーの対立でなく、国民政党的なものが2つ必要だ、として、96年民主党をつくりました。その前提は国民のための政権交代。しかし、それには理念が必要なのに、今の現役議員は権力奪取の一面ばかりで、国民そっちのけの政争ごっこをしている。今こそ原点を知っている私が戻って、かつての経験をいかしたい。枝野さん、前原さん、原口さん・・・世代交代が進んでいるように思えるが、自分にできることは必ずあると信じている」としました。

[写真]枝野幸男さん、岡田克也さん、簗瀬進さん(民主党ホームページ

 簗瀬さんは1950年4月23日生まれですから、第23回参院選のときには、63歳、任期満了まで務めると、69歳になります。これまで衆院2期・参院2期で勤続18年8ヶ月間を積み重ねています。昨年7月からの新しい参議院議員会館には入居したことがないということになります。記者会見で、輿石会長は、第23回通常選挙から適用される見通しの新・選挙制度について、全国的団体の組織内の候補者以外でも参院議員になれるような制度にしたいという方向性に言及しました。「簗瀬進が当選できるような参院選挙制度にしたい」と、これは宇都宮にかけつけてのリップサービスも含んだ表現ですが、各会派が合意しての選挙制度改革に自信をのぞかせました。

 簗瀬さんによると、2011年6月27日(月)のマンデーリポートの配布が「通算で887回目になる」とのこと。岡田克也になれなかった、枝野幸男に抜かれた・・・でもだからこそ、簗瀬進さんは政争から一歩離れて政治を見られるのでは。政党政治はチームプレーです。ルール・オブ・ザ・ゲーム(選挙制度)がまだハッキリ分かりませんし、2013年夏には自民党政権になっているかもしれません。そのとき民主党が与党であれ、野党であれ、二大政党デモクラシーの完成のために頑張ってほしいと思います。

 いつかはまた晴れる日が来るから。

【追記 2015年12月25日】

 簗瀬進さんは、大学副学長(兼)憲法学教授として、ご活躍を続けています。

【追記終わり】

このエントリー記事の本文は以上です。 
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第23回参院選が今の制度で行われることはありえない」と断言 岡田幹事長、参議院の制度を抜本改革

2010年12月17日 10時55分31秒 | 第23回参院選(2013年7月)二番底

 民主党幹事長の岡田克也さんは2010年12月16日の記者会見で、第22回参院選で鳥取県民と神奈川県民の1票の格差が「違憲」あるいは「違憲状態」とする高裁判決(ただし「合憲」1つ)が相次いだことについて、

 「違憲、違憲状態という判決が引き続いて出ているということはやはり国会議員としては極めて恥ずかしいし、かつ民主主義の最も基本である投票する権利にかかわる問題だけにこれは真摯に受け止めなければいけないと思います。したがって、参議院だけでなく、衆議院もそうなんですが、一票の格差が合理的な範囲にとどまるように、なんといいますか、きちんとした対応しなければならない。参議院については1県に最低1議席としている制度に限界がある」

 と述べ、第23回参院選について、「次の参院選が今の制度のまま行われることはありえない」と断言しました。

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