flow Trip -archive-

「漂い紀行 振り返り版」…私の過去の踏査ノートから… 言い伝えに秘められた歴史を訪ねて

琉球の古民家

2008-05-05 00:00:47 | 木のたてもの
 中城からは、沖縄在住の知人の方によるご案内での移動となった。
中城城から程近いところには、国指定重要文化財の中村家住宅があり、戦前の木造建築を残す貴重なものである。
 中村家は、中城城主護佐丸盛春が座間味城よりこの地に移った際に、同行した賀氏がその後の護佐丸自害後もこの地に残り、間切(まぎり:村)の庄屋となって続いた家である。
 琉球王国時代には茅葺であったという屋根は、明治時代以降、台風にも耐える漆喰で固められた瓦に変わり、古き良き「沖縄の屋根」を印象付けている。内部は本土の農家とさほど変わらないが、家の役割からか、やや格の高い調度である。また、入口は直接内部が見えないよう顔隠しの塀(ヒンプン)が設けられ、中国文化の名残がみられる。そして、台所(とぅんぐわ)には火の神(ひぬかん)を祀っているが、神社神道の火防の神「秋葉大権現」や、仏教の火盗消除、伽藍守護を担う「韋駄天」(いだてん)と形は違うものの同様の役目を持っているようである。
       
(最初と最後の写真は、沖縄県立博物館内復元家屋)

 また、外部からの防御として「シーサー:獅子」がある。一般民家に魔除けとして置かれるようになったのは明治以降であり、それまでは本土同様、信仰対象の前に置かれる狛犬(唐獅子)と同様の役割のものであった。然し沖縄では、それ以外にも集落の入口や、城郭の魔除けとして置かれていたようである。

 この他、沖縄の建物には「石敢當」と刻まれた石が置かれたり、貼られていたりすることがある。これは、魔物(まむじん)が道を直進して入ってくると考えられているため、道の突き当たりや岐路の付け根にある家に石敢當を置き、魔除けとする中国伝来の風習である。


 この後は、本島北部方面へと向かった。

(関連記事:琉球の墳墓
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山王祭からくり奉納 龍神臺

2008-05-04 00:00:24 | 民俗・伝承
(春の高山祭 岐阜県高山市 国指定重要無形民俗文化財)
 三番叟に続いて、上三之町中組の屋台、龍神台の奉納が始まる。
錦袋に入った壺を持った唐子が謡曲「竹生島」に合わせ、機関樋(屋台からせり出すレール)の先端に進み、壷を置いて引き返すと、壺の中から赤ら顔の竹生島の龍神が紙吹雪をあげて現れ、荒々しく怒り舞うというからくりである。
           

 続いて、石橋台のからくりが始まる。

(関連記事:からくり屋台 神楽台 飛騨高山平成十六年秋 平成十九年春 江名子
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金山 烏峰城

2008-05-03 01:30:31 | 城郭・城下町

(岐阜県可児市兼山 県指定史跡)
 兼山小学校の建物を利用した兼山歴史民俗資料館に立ち寄り、兼山城主森氏の遺品を観覧すると共に、兼山の歴史についてお尋ねした後、標高277mの古城山に向かった。
(鬼門除けの六角堂)
 (出丸跡)
(三の郭跡)
 
(古城山拂下記念碑)
 金山城は、烏峰城として、天文六年(1537)斎藤正義によって築城された。然し、天文十七年(1548)土岐康貞が、久々利城に正義を花見名目で招き、謀殺したという。そして一時、土岐氏の城となったが、永禄八年(1565)織田信長臣森可成が入城し、金山城と呼ばれるようになった。
(二の郭跡)
(物見櫓跡)
明智長山城方面)
 永禄十三年(1570)可成は近江宇佐山で戦死し、可成の長男可隆も越前手筒山で戦死、二男長可が城主となった。然し、長可も天正十二年(1584)小牧長久手の戦いで戦死し、可成六男忠政が城主となった。
(主郭虎口)  (腰郭跡)
 (主郭石垣)
(主郭跡)
 (主郭跡搦手側)
 (古城山のオオウラジロノキ)
  
 慶長五年(1600)忠政は信濃川中島へ転封し、石川貞清が入ったが、間もなくして金山城を廃し、その廃材を眼下の木曽川で流し、尾張犬山城の部材として利用したとされる。
(搦手門跡)
   
 主郭跡及び腰郭跡は、平成18年、19年度に発掘調査が行われ、建物礎石や虎口跡が確認されている。また、土師系土器や陶器片が検出されており、眼下の歴史民俗資料館に展示保管されている。

 この後は、兼山の旧玄関口であった、兼山湊跡へ向かった。

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琉球の墳墓

2008-05-02 00:00:03 | いにしえびとの睡
 沖縄の墓所形式は、亀甲型、破風型及び屋形型といった、住居を成した形式が殆どである。その形は、遺体及び遺骨を納める言わば厨子であり、内部には広い空間を持っている。
 亀甲墓(かーみなくーばか)は、斜面や崖面に横穴を開けて造られた、それまでの形式「堀込墓」を踏襲するものであり、屋根にあたる部分が亀の甲羅の形状を成している。また、死後に母の胎内に戻るという意味合いも持っていて、最古とされるのは、首里伊江御殿(いえうどぅん)の亀甲墓であるという。
(堀込墓 伊寿瑠按司の墓)
(亀甲墓、中城大城)
 破風墓(はふーばか)及び屋形墓(やーぐぁばか)は、沖縄では琉球国王第二尚氏歴代玉陵(たまうどぅん:御霊御陵)が最初であり、中国東南部の華南系墓式が伝わったものである。廃藩置県後に一般にもこれら形式が許され、次第に広まっていった。
(一般的な破風(屋形)墓)
 中国二十四節季の一つ、清明(旧暦三月)に行われる清明祭(しーみー:祖先祭)のときには、墓前で門中(むんちゅー:一門)が先祖と共に宴を催し、一体となって喜び楽しむ。

(関連記事:琉球の古民家
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山王祭からくり奉納 三番叟

2008-05-01 00:00:31 | 民俗・伝承

(春の高山祭 岐阜県高山市 国指定重要有形民俗文化財)
 午前10時半に高山へ到着。道中、雪の残る場所が幾つかあったが、高山の気温も8℃であり、曇天で寒かった。
 
 先ずは観光案内所で市内の施設に入館できる「通行手形」をいただき、日枝神社お旅所前にある、からくり奉納場所へ向かった。到着直後は、まだ隙間のあった奉納場所も、みるみるうちに多くの人で埋め尽くされ、と同時に太陽が顔を出し、そして日差しが強くなり気温も急上昇、顔がじりじりと焼けるのが分かった。
  
 春の高山祭である山王祭は、江戸時代前期に、高山城下の江戸街道(国道158号線)より南側の氏神である、日枝神社の例祭として始まったものであり、からくり奉納や屋台曳き揃え、夜祭、御巡幸等が行われる。
 
 からくり奉納三台(三番叟、石橋台龍神台)の内、上一之町中組の三番叟(さんばんそう)は、屋台で演奏される謡曲「浦島」に合わせて童人形が機関樋(屋台からせり出すレール)を先端に進み、箱に顔を近づけると、一瞬に「翁」に変身するからくりである。
     

(関連記事:からくり屋台 神楽台 飛騨高山平成十六年秋 平成十九年春 二十年春Ⅰ 江名子

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