最近、沢木耕太郎を読み返している。表題の「チェーンスモーキング」は1990年発刊のエッセー風の短編を15編集めたものである。彼の文体は私から見るとたくさんの魅力が詰まっているのだが、一つの大きな特徴はその文末の魅力である。
ついにネタが尽きはじめた。今年の冬はいつもと違い、自宅に籠っていることが多いためネタ切れ現象が起こり始めた。そんなわけで私が得意としない書評的なことをちょこっと試みてみたい思う。
沢木は寡作の作家である。
彼の主たる作品が綿密な取材を必要とするノンフィクションであるから、それほど多くの作品を発表するわけにはいかなのだが、特に最近はその発表が稀有となっている。
それでも今春(昨年暮?)の文藝春秋誌1月号に、彼がこだわり続ける戦争写真家ロバート・キャパの作品について検証した「キャパの十字架」を発表した。その綿密な取材ぶりは沢木の面目躍如といった感の作品である。
さて、「チェーンスモーキング」である。
1990年刊というと、沢木が43歳のときの作品である。
沢木の43歳というと20歳半ばでデビューした沢木が注目の作品を次々と発表してすでに確固たる地位を築いた後の作品である。そうした意味では脂が乗りきっている時期の作品ともいえようか?
エッセーとか、コラムなどを読んだときに「上手いなー」と思える文章に共通しているのはその文末、つまり文章のまとめ方である。
沢木の文章の魅力の一つはその文末が際立っている点にあるように思う。ある評論家が「沢木の魅力はダンディズムにある」と評した。私は沢木のダンディズムを最も感ずるのが文末にあるように思っている。
例えば「チェーンスモーキング」のあとがきの文末を紹介してみよう。
(前略)考えてみれば、連載を実現させた「エスクァイア」の長澤潔氏も煙草をすわない。たしか、装幀の平野甲賀氏も、装画の小島武氏もすわなかったと思う。実に、『チェーンスモーキング』に携わってくださった全員が「ノー・スモーキングの人」だった。
すべて「ノー・スモーキングの人」の手によって産みおとされた『チェーンスモーキング』。これが人間の子供だったら相当ひねくれた性格になってしまうのではないかと懸念される。その誕生に関して最大の責任を負わなければならない者としては、『チェーンスモーキング』よ、どうかグレたりしないでほしい、祈るばかりだ。
本がグレるとどうなるかは、私もよくは知らないのだが。
この部分を読んで私は「クスッ」と笑い、「相変わらず、沢木は上手いなー」と呟いていた。
書評をと思ったが、書評にはなり得なかった。単なる愛読者のファンレター的文章になってしまった。彼の文章をもっと熟読していつか本当の書評をモノにしてみたい。