早朝は太陽がまぶしいくらいでしたが、その後曇ってきて小雪が舞ったり、午後になってまた陽が差すようになったり、めまぐるしく変わる天気です。
(午前6時15分頃です。確実に朝が早くなってきましたね。)
(午前10時頃 小雪が舞っています。)
早いですね、もう今週も木曜日です。 働いていないから時の流れを早く感じるのか。働いていなくて、かつ何もすることがないというのであれば毎日が長く感じられるのでしょうか。何か起きたと思ったら、もう布団を敷く時間かと思うことが多くなってきました。これはどういうことなのでしょうか?
(クレーンを使って物資の運搬(足場の上に)をしています。)
(工事中の澱橋橋脚の上流側)
(下流側 排水中)
きのう非常時持ち出しの中身を、恥ずかしながらお見せしましたが、枕元にはこういうものを置いています。
携帯ラジオとLEDライト、呼子です。
ヘッドライトも用意しています。
きのうの政府主催の追悼式での、被災3県の代表者の追悼の言葉を読みましたか。テレビで少しだけ見たのは、宮城県代表のまだ若い女性の顔でした。その時に気になることを言っていました。 とても19歳とは思えないくらい、とっても凛々しく端正な顔立ちのしっかりとした女性でした。
がれきに埋まった母の言葉、 「行かないで」 という言葉を聞いたけど、ここにいたら自分も死んでしまうと思い、泳いで近くの小学校に渡ったと言っていました。 それを聞いたもので、実際に活字になったものを読んでみたいと思っていました。
『・・・。あの日、中学の卒業式が終わり家に帰ると大きな地震が起き、地鳴りのような音と共に津波が一瞬にして私たち家族5人をのみ込みました。 しばらく流された後、私は運良く瓦礫の山の上に流れ着きました。その時、足下から私の名前を呼ぶ声が聞こえ、かき分けて見てみると釘や木が刺さり足は折れ変わり果てた母の姿がありました。右足が挟まって抜けず、瓦礫をよけようと頑張りましたが私一人にはどうにもならないほどの重さ、大きさでした。母のことを助けたいけれど、ここに居たら私も流されて死んでしまう。「いかないで」という母に私は「ありがとう、大好きだよ」と伝え、近くにあった小学校へと泳いで渡り、一夜を明かしました。・・・。家族を思って泣いた日は数えきれないほどあったし、15歳だった私には受け入れられないような悲しみがたくさんありました。全てが、今も夢の様です。・・・。』
この彼女の追悼文を読んでそのあまりの重さに呆然としてしまいました。中学校を卒業したばかりの15歳の少女にとって、何と過酷な、非情な選択となってしまったのでしょう。
自分だったらどうするか。私にも二人の子どもがいるし、子どもと私が彼女のような状況になってしまったときどんな行動をとっただろうか。どんな行動がとれただろうか。
私が彼女のお母さんの立場となったら、子どもにどんな言葉をかけるか。確実な死が間近に迫っているときに、一体どんな言葉をかけたらいいのか、かけられるのか。
悩みました。当時の状況からして何が正しかったのかは何とも言えません。もう助からないだろうという究極の極限の場面において、生きている人に対して、人はなにを言うべきなのか、何を言っていいのか、もしかして言ってはいけないことがあるのではないか。
辛いです。お母さんの言った言葉に対してもいろいろな思い考えがあることでしょう。20年前の阪神淡路大震災のときも、古くは東京大空襲や広島長崎の原爆投下のときも、家屋の下敷きになって逃げようにも逃げられない人々はたくさんいたことでしょう。
助けようとしてもその手段がなく途方に暮れて茫然自失、泣く泣く見捨てる形で逃げた人々もたくさんいたことでしょう。 そうしなければ自分自身が死んでしまうのですから。
「行かないで」という言葉の裏には「助けて」という思いがあったでしょう。当然娘さんはそう理解したはずです。 助けようと最善を尽くしても自分一人の力では如何ともしがたい厳しく冷酷な現実。 そういう過酷な状況に一人で耐えなければならなかった15歳の少女。
「ありがとう、大好きだよ」という言葉を発した15歳の娘。 こういう状況の中でよくそういう感謝の言葉が出てきたものだと感心するばかりですが、そういう言葉が言えるいい親子関係だったともいえるのでしょう。
私が想像したのは、そういう状況ならば「私(母)のことはいいから、何とか自分(娘)だけでも助かってくれ」というのが子どもに対する親の立場だろう、後々子どもにとって負担、重荷となる言葉をかけるのは子どものためによくない、こどもの精神的負担をできるだけ軽くしてやろうとおもうのが親心ではないか、それが普通のような気がします。
だけどお母さんは自分に正直だった。なんとかして助かりたかった、助けてほしかった、一人になるのが怖かった、一人で死んでしまうのが怖かった。人間の心情として当然なことといえるでしょう。
そして、子どもとしても「すみません、一人ではどうしても助けられない、見捨てる形になるけどあなたの子どもは生きていきます、許してください、そのかわり永久に忘れません」という気持ちは当然あっただろうと思います。
そのうえでお母さんに”感謝の言葉”をかけて、泳いで行った。 罪悪感を乗り越えるものが”感謝の言葉”であった。そのことで前向きに生きていくことが可能となった。
「ありがとう」ということば、改めていろいろ考えさせられてしまういいことばです。言う人も言われる人も ”前向きになれる言葉” です。 あらためて”大切にしたい言葉”だと感じさせてくれました。
東日本大震災を風化させてはいけないと思っているみなさんは、是非とも菅原さんの追悼文をじっくりと読んで、自分に置き換えて考えてみようではないですか。
菅原彩加(さやか)さん、前を向いて生きて行ってください。 ありがとう