きのうきょうととってもいい天気です。 心も体もウキウキするようではありますが、花粉症だけは困ります。
(午後2時頃)
春分の日、お彼岸の中日ですので、家族全員でお墓参りに行きました。 小雨模様の19日にも母の月命日だったのでお墓参りは夫婦でしてきましたが、私はお墓が好きですので、何回行ってもいいものです。 心が洗われるようになります。
今のお墓はむかし昔とは打って変わって明るい雰囲気になっていますが、大袈裟に言えば、昔はお化けでも出るかと思われるくらい暗い陰気なお墓でした。
そうではあっても基本的にお墓は好きで、とくに線香の煙と臭い、煙がたなびく風景がいいですね。 変でしょうか?
お彼岸と言えばこれです、おはぎです。 この前テレビでも45分くらいだったかなドキュメンタリーとして放送されたので、売り上げはさらに増えていることでしょう。 そうです、これです。
秋保の佐市のおはぎ。 あんこ・ごま・きなこの三種類を買ってきました。 買ったのは地元のデパートですが。
(あんこ)
(ごま)
(きなこ)
それぞれ2個ずつ入っていますが、さてこのうちnewoneは幾つ食べたでしょうか?
答えは、あんこは2個、ごまときなこは各1個ずつの計4個です。 食べる気になれば、6個は食べられないことはないですが、食べ過ぎないように注意したわけです。
そしてきょう21日は「卵の日」だそうです。 お墓参りに行くときにラジオで知りました。 この頃は玄米食にしてるためもあって、卵かけごはんはあまり食べてないですが、卵かけごはんは大好きですね。
(きょうの午後2時過ぎ)
(きのうの午前中の様子です。小学生たちのようです。)
子どもの頃は朝ご飯に卵を食べられたときはもう ”ごちそう” でした。 でも卵は値段があまり上がらない模範的な食料品となっていますが、昔々はそうは食べられませんでした。
今思い出しますと、卵1個を琺瑯(ほうろう)びきの大き目の容器に入れて、よくかき混ぜ、さらに醤油を一杯かけて食べたものです。 何しろ当時は8人家族でしたから、そうしないと量が増えません。 どちらかと言ったら”醤油かけごはん”が正しいかもしれません。
(きのうの午前中。トンビが低空をゆったりと舞っていました。)
今の時代からは想像もできないでしょうが、ごはんも麦ごはんだったし、貧しかったから仕方がなかったし、とくに朝食に不満もありませんでした。 不満と言えば、姉たちにスプーンで多く卵を掬われてしまった時でしょうか。
その琺瑯びきの容器はいまは使ってはいませんが、大切にとっておいてあります。貧しかった時代、少ない食べ物をみんなで分け合って食べたということを忘れないためです。
(今月の花。 ウサギの耳のような花と言っていました。)
そして残念なこともありました。と書くと、すぐに、あっまたか、安倍晋三の悪口か、軍事大国への批判かと思う方が多いと思いますが、そうではありません。
人間国宝の桂米朝さんが亡くなったことです。 19日に肺炎で亡くなりました。89歳でした。 あの柔らかな関西弁をもう直接聞くことができなくなりました。 新聞ではかなり大きく取り上げていましたがそのくらいの存在価値のある、貴重な落語家でした。
家にある桂米朝さんの本は5冊ですか。
「米朝よもやま噺」は、2007年12月が初版で、この本は2008年1月の第2刷で、朝日新聞社の発行です。
「桂米朝集成 第一巻から第四巻」はいずれも初版本で、2004年11月から2005年2月にかけて、岩波書店から発行されました。 この集成は傘寿記念の出版です。
新聞記事を読んでいていろいろ思い出しました。 またまたむかし昔のお話しになります。(この頃昔話が多くなってきました。今のうちにわすれないように自分の子供たち向けに書いておこうという無意識の考えがそうさせるのかもしれません。)
その昔、newoneが関西に住んでいた時のこと、詳しくは西宮の阪神甲子園球場のすぐそばです。そうそう阪神甲子園といえば、きょうから春の選抜大会が開幕しましたね。なんでも地元の育英学園は優勝候補のひとつとか。準優勝まで行ったことはありますが、ゆうしょうはありません。是非とも白河をこえて優勝旗がみちのくに錦を飾るように祈っています。似非官軍にどうだ見たか!といってやりたい!!
また話しが外れてしまいました。阪神電車の特急にも久しく乗ってないなあ・・・・・
もう45年くらい前になりますか、大阪はミナミの教会、島の内という教会で、イエスキリストの教会ですよ、その教会で上方落語を何とか盛り上げようという動きが始動胎動しました。 「島の内寄席」 といいました。
なんかいくらい通ったか、仕事が終わってから通いました。平日の夜に開催されていたと思います。 会社が本町だったからすぐ近くとなります。
今思うと本当にそうそうたるメンバーが出演していたのです。今は大家大御所となっている落語家も、昔は駆け出しもいいところでした。 大御所は桂文枝(桂小文枝から文枝になったのかな)。笑福亭松鶴、そして桂米朝の3人でした。
小さい教会でしたから、あまり多くの人は入れません。150人くらいがせいぜいのところからと思います。 前座から始まってトリを務める大御所まで、飽きませんでしたね。何しろすぐ目の前でしゃべるのですから。
いまから45年以上も前ですから、米朝さんも40代の前半ということになります。 でも新聞の記事の「桂米朝さんの歩み」によると、1966年(41歳)は初めての独演会「桂米朝スポットショー」を開いたり、桂米朝落語研究会を始めるとあります。
また1971年(46歳)には、大阪サンケイホールでの独演会をスタートさせ、1972年には第1回上方お笑い大賞を受賞したということです。 ということで 『島の内寄席』 という言葉は出てきません。
個人的にはこの「島の内寄席」が大きなターニングポイントになったものと思っています。だって、落語を教会で開いた、教会で開かなければならなかったのですよ。資料がどこかにあるはずなので見つかったらお知らせします。
愛弟子の桂枝雀も自殺してしまったし、本当に惜しい人でした。英語の落語に挑戦したりして、八面六臂の活躍をしていたのですが、あまりに生き急ぎすぎました。真面目に取り組みすぎました。 枝雀のCDを4枚くらい持っているのですが、なんともすごいお笑いの才能の持ち主であったことか!!
いい人はみんな死んでしまう。残るのは早く消えてほしい者ばかり。 世の中うまくいきません。
ご冥福をお祈りいたします。 合掌