『目の見えない白鳥さんとアートを見にいく(電子書籍)』
長く書くのを忘れていた。
今日、横浜市本郷台の「アースプラザ」でドキュメンタリー映画「目の見えない白鳥さんとアートを見にいく」を見てきて、読了と同時となった。映画のことも、本書のことにも触れているのだが、たまには、こういうスタイルもいいだろう。
この作品は、基本的にはほぼ同名の『目の見えない白鳥さんとアートを見にいく』(川内有緒、集英社インターナショナル、2021)の映画版といっていいだろう。とはいえ、映画の流れは、書籍版とはかならずしも、一致しない。また、映画版には、別の50分の短編があったようだ。終了後のトークショーで、三好監督によれば、おおまかには、短編に後半の猪苗代の「はじまりの美術館」での白鳥さんのオンサイトパフォーマンスの部分が加わっているという。
両作品ともに視覚障害者の白鳥さんが「アートを見に行く」というという点だけに焦点が当てられているわけではなく、おそらく晴眼者にたいする視覚障害者の日常についても伝えようとしている。また、書籍版では、視覚障害者にとっての障害とは何かとか、差別や偏見の問題についても触れられている。
私が両作品に関心を持った理由は、視覚障害者の白鳥さんが他者との共同作業(他者との会話)を通じて、対象(芸術作品)を理解しようとしていると思ったからだ。人間は、見るといっても、視野に入る視覚情報をすべて把握しているわけではない。見えていることと、理解することはことなる。さらには、見えていることを言語化するにしても、言語化する人の認識の焦点によっても異なっているはずだ。晴眼者が見たことを視覚障害者に言語を通して伝えるとしても、視覚障害がどのレベルかや晴眼者が何を伝えようと考えるか、一概にはいえない。とすると、視覚障害者の白鳥さんとのやり取りはどのようなものだろうか。
どのように伝えるのか、どのような言葉をつかえば伝わるのか、また伝える内容は何であるのか、なんとも漠然としている。たとえば、対象(両作品の場合は現代アート)について、晴眼者どうしでもおそらく、見ている対象のどの部分に焦点が当てるかによって、異なる言葉が出てくると思う。
学校教育における美術という科目には、作品を作るだけでなく、美術史や作家について学び、さらには美術館において作品鑑賞を行うというカリキュラムが含まれているはずだ。白鳥さんの行動は、最初は付き合っていた女性が美術館に行こうといった経験があったことをきっかけにしたものだったというがが、様々な障害を持つ人々が美術館において作品鑑賞をするということを可能にするという昨今の流れにも即している。
盲人にもちろん、盲目と言っても個人差が存在する。つまり、生まれてから視覚経験を持たない盲目の人から、白鳥さんのように片目は全盲だがもう片目も弱視だったが20歳ごろまで光が見えていた人のように、途中までは視覚情報を認識していた人、さらには、何らかの理由で途中で全盲となった人(もちろん、それまでの視野認識や全盲となった年齢も関連するだろう)などなど、様々な盲人がいる。そうした人々を十把一絡げにすることはもちろん困難ではある。また、晴眼者であったとしても、「見える」といった視野に入る情報を認識するうことと、「見るということ」は経験などに照らし、注視して記憶に留めるといった行為とは異なるはずだ。
トークショーでは、白鳥さんはこれまでの鑑賞教育と彼がかかわる鑑賞会は違うという。では、美術についての鑑賞教育とは何だったのだろうか。
ここで思い出したのが、昨年の対話型鑑賞教育を目指した?「あいち2022」の一宮での経験だった。わたしは、その時「どう思いますか」を連発したボランティアの女性に腹を立てたのだけれど、ファッシリテータはどのようにすればよいのだろう。映画会終了後でのステージでの白鳥さんによれば、ファッシリテーションなしの鑑賞会がありうるというのだけれど、どうなんだろう。本書を読んだり、映画をみたりすると白鳥さんのキャラクターそのものが参加した人の言葉を引き出しているような気がする。ドキュメンタリー映画の中のかれのいう鑑賞会は、白鳥さんはみなさんの発言を最小限のかかわり、笑う、うなづく、そうそうというという言葉程度のリアクションだが、参加者はそれなりに感想を漏らして、会話になっている。
映画をみて興味深く思ったのは白鳥さんの「読み返さない日記」で、読み返すも何もカメラで取った画像、全盲の彼は見直すことができないわけだ。しかし、これまで40万枚以上も毎日摂り続けているという。かれは、美術鑑賞家であると同時に写真家でもあると自称する。
まあ、結論づける必要はないのだけれど、本書も映画もツッコミどころが多い。とはいえ、目の見えない白鳥さんが美術鑑賞家だったり、写真家だったりするというのは多様な視点、多様な理解をもたらす。とはいえ、このことは、多様性そのものの理解の困難さでもあるとも思えるのだが。
両作品ともに視覚障害者の白鳥さんが「アートを見に行く」というという点だけに焦点が当てられているわけではなく、おそらく晴眼者にたいする視覚障害者の日常についても伝えようとしている。また、書籍版では、視覚障害者にとっての障害とは何かとか、差別や偏見の問題についても触れられている。
私が両作品に関心を持った理由は、視覚障害者の白鳥さんが他者との共同作業(他者との会話)を通じて、対象(芸術作品)を理解しようとしていると思ったからだ。人間は、見るといっても、視野に入る視覚情報をすべて把握しているわけではない。見えていることと、理解することはことなる。さらには、見えていることを言語化するにしても、言語化する人の認識の焦点によっても異なっているはずだ。晴眼者が見たことを視覚障害者に言語を通して伝えるとしても、視覚障害がどのレベルかや晴眼者が何を伝えようと考えるか、一概にはいえない。とすると、視覚障害者の白鳥さんとのやり取りはどのようなものだろうか。
どのように伝えるのか、どのような言葉をつかえば伝わるのか、また伝える内容は何であるのか、なんとも漠然としている。たとえば、対象(両作品の場合は現代アート)について、晴眼者どうしでもおそらく、見ている対象のどの部分に焦点が当てるかによって、異なる言葉が出てくると思う。
学校教育における美術という科目には、作品を作るだけでなく、美術史や作家について学び、さらには美術館において作品鑑賞を行うというカリキュラムが含まれているはずだ。白鳥さんの行動は、最初は付き合っていた女性が美術館に行こうといった経験があったことをきっかけにしたものだったというがが、様々な障害を持つ人々が美術館において作品鑑賞をするということを可能にするという昨今の流れにも即している。
盲人にもちろん、盲目と言っても個人差が存在する。つまり、生まれてから視覚経験を持たない盲目の人から、白鳥さんのように片目は全盲だがもう片目も弱視だったが20歳ごろまで光が見えていた人のように、途中までは視覚情報を認識していた人、さらには、何らかの理由で途中で全盲となった人(もちろん、それまでの視野認識や全盲となった年齢も関連するだろう)などなど、様々な盲人がいる。そうした人々を十把一絡げにすることはもちろん困難ではある。また、晴眼者であったとしても、「見える」といった視野に入る情報を認識するうことと、「見るということ」は経験などに照らし、注視して記憶に留めるといった行為とは異なるはずだ。
トークショーでは、白鳥さんはこれまでの鑑賞教育と彼がかかわる鑑賞会は違うという。では、美術についての鑑賞教育とは何だったのだろうか。
ここで思い出したのが、昨年の対話型鑑賞教育を目指した?「あいち2022」の一宮での経験だった。わたしは、その時「どう思いますか」を連発したボランティアの女性に腹を立てたのだけれど、ファッシリテータはどのようにすればよいのだろう。映画会終了後でのステージでの白鳥さんによれば、ファッシリテーションなしの鑑賞会がありうるというのだけれど、どうなんだろう。本書を読んだり、映画をみたりすると白鳥さんのキャラクターそのものが参加した人の言葉を引き出しているような気がする。ドキュメンタリー映画の中のかれのいう鑑賞会は、白鳥さんはみなさんの発言を最小限のかかわり、笑う、うなづく、そうそうというという言葉程度のリアクションだが、参加者はそれなりに感想を漏らして、会話になっている。
映画をみて興味深く思ったのは白鳥さんの「読み返さない日記」で、読み返すも何もカメラで取った画像、全盲の彼は見直すことができないわけだ。しかし、これまで40万枚以上も毎日摂り続けているという。かれは、美術鑑賞家であると同時に写真家でもあると自称する。
まあ、結論づける必要はないのだけれど、本書も映画もツッコミどころが多い。とはいえ、目の見えない白鳥さんが美術鑑賞家だったり、写真家だったりするというのは多様な視点、多様な理解をもたらす。とはいえ、このことは、多様性そのものの理解の困難さでもあるとも思えるのだが。