『やんごとなき読者』
本書は、エリザベス2世女王が主人公であるというフィクションだ。彼女は女王としての職務を忠実に果たしてきたが本を読むという喜びに触れることがなかったものの、ふとしたきっかけで読書を始めることになった。ある日、バッキンガム宮殿の庭園で愛犬のコーギーたちを散歩させていたところ、愛犬たちが吠えかかったのが宮殿の厨房の入口近くに停車していた移動図書館の車両だった。そこで厨房で働く少年ノーマンとであう。ノーマンはゲイでゲイの小説家を中心に読書しているが、女王に自分の趣味の本も含めて様々な本をすすめる。女王は読書の喜びに目覚め、ノーマンを厨房の使用人から小姓に引き上げ、彼を日常生活の身近な存在とする。彼は女王の執務室近くの廊下の一角に置かれた椅子を職場として女王の依頼により本を収集したり薦めたり、本の内容について女王と話す。
やがて女王は読書ノートに読後の感想を含め様々なことを書き記すようになる。ノーマンはあいにく、女王の個人秘書のサー・ケヴィンのはからい(女王の読書が様々な女王の業務に支障があることを見つけた首相が自身の最高顧問をつうじてサー・ケヴィンにノーマンの追放を助言したから)によって、大学で文学を学んではどうか(女王のはからいであると偽って伝えた)と助言され、ノーマンは女王の前から姿を消した。
読書に目覚めた女王は、やがて、読書は書くことにも通じることを見出す。自身は長い統治の間、様々な出来事を経験し、世界各地を訪問し、各国の首脳はじめ様々な有名人たちと出会ってきたそうした経験をもとに、自身の経験を分析し本に書き残してみたいと思うようになる(必ずしも、小説を書くということではなく)。
わたしは、本書をとても興味深く読んだのだが、読後、解説を読んで少し疑問を深めた。この解説によると、イギリスの上流階級(貴族や王族も含む)たちは、パブリックスクールを出てオックスブリッジを卒業しているというような教養あふれる人々と見えるが、実はそうではないという。少なくとも本書の女王の読書を始める以前の彼女および彼女を取り巻く上流階級の人々は、シェークスピアなどの引用をふくむ様々な教養溢れた会話や行動とは無縁の人々であるという。
じつは、わたしは、イギリスにはトランジットでヒースロー空港で往復で数時間滞在しただけだ。とはいえ、わたしは、オーストラリアやニュージーランドで長く仕事をしてきたので、イギリス出身(もしくは、イギリス連邦出身)の知り合いや友人が少なからずいる。そうした人々との何気ない会話には、ほとほと自分自身の教養の無さに辟易とした経験が少なからずある。私自身、おそらく、世間並みには読書家と言ってよく、しかも、様々なジャンルを渉猟している。加えて、研究者の末席を汚している。研究分野は文学ではないし、過去の文献を踏まえることは当然のこととして学んできたものの、むしろ経験を元にして記述することが、私にとっての主要な「書く」という行為ではあるのだが。
ところが、友人たちとの何気ない会話(研究に関わるものではない)では、ついていけないことに悩んできた。もちろん、知るべき(読んでいるべき)対象がイギリスの教養人とは異なっているから、やむを得ないともいえるということは言うまでものないのだが。したがって、日本のことを話すときには会話の主導権を握る事ができることはいうまでもない。とはいえ、会話はイギリス人およびイギリス連邦人が多数の中に交じるので、当然のことながら、話題の多くは彼らの教養のジャンルに集中することになってしまう。こうした経験を踏まえて、本書の解説を読んでわかったことは、私がオーストラリアやニュージーランドで会話してきた人々は、上流階級の人ではなく中産階級の人々であったということのようだ。
さて、本書が描く女王は、読書に目覚め、あろうことか自身の経験を踏まえて分析し何事かを書き記すことにも目覚めたのだ。「君臨すれど統治せず」というのがイギリスの統治者のモットーとはいうものの、読書を踏まえて経験を分析し書きとどめ、それをもって、為政者に賢明な助言を与える可能性に気がついた女王は、本書の中でも退位後本を執筆することを匂わしている。本書の最後のシーンは、女王の80歳の誕生日を祝う食事会におけるシーンであった。実際には、女王は昨2022年9月に96歳で薨去するまで退位することなく君臨し続けたわけで、本書はあくまでもフィクションとしての地位を保ったことになる。
我が国の政治家や高級官僚たち、彼らは我が国の上流階級(イギリスのそれと匹敵する)と言えるのであろうか。つまり、イギリスの上流階級のような「知的でないことの重要性」を担保されるべき人々なのだろうか。いや、決してそうは思わない。彼らこそは日本的中産階級の上辺の存在として、あくまでも教養を高めるための多様な領域の読書をふまえ、収集した事実や自己の経験を分析する能力を持ち、業務を遂行すべきだと思う。かれらには、本書を読んで読書をしそれを踏まえて上で自身の経験を分析し客観的に(主観的にであってもよいが、独善的ではないことを理解し、それを踏まえて自己分析のできるという意味)事態を認識できる教養をもつべきだといいたい。そうしたかれらには、ぜひ、読書の出発点として本書を読むことを薦めたい。
やがて女王は読書ノートに読後の感想を含め様々なことを書き記すようになる。ノーマンはあいにく、女王の個人秘書のサー・ケヴィンのはからい(女王の読書が様々な女王の業務に支障があることを見つけた首相が自身の最高顧問をつうじてサー・ケヴィンにノーマンの追放を助言したから)によって、大学で文学を学んではどうか(女王のはからいであると偽って伝えた)と助言され、ノーマンは女王の前から姿を消した。
読書に目覚めた女王は、やがて、読書は書くことにも通じることを見出す。自身は長い統治の間、様々な出来事を経験し、世界各地を訪問し、各国の首脳はじめ様々な有名人たちと出会ってきたそうした経験をもとに、自身の経験を分析し本に書き残してみたいと思うようになる(必ずしも、小説を書くということではなく)。
わたしは、本書をとても興味深く読んだのだが、読後、解説を読んで少し疑問を深めた。この解説によると、イギリスの上流階級(貴族や王族も含む)たちは、パブリックスクールを出てオックスブリッジを卒業しているというような教養あふれる人々と見えるが、実はそうではないという。少なくとも本書の女王の読書を始める以前の彼女および彼女を取り巻く上流階級の人々は、シェークスピアなどの引用をふくむ様々な教養溢れた会話や行動とは無縁の人々であるという。
じつは、わたしは、イギリスにはトランジットでヒースロー空港で往復で数時間滞在しただけだ。とはいえ、わたしは、オーストラリアやニュージーランドで長く仕事をしてきたので、イギリス出身(もしくは、イギリス連邦出身)の知り合いや友人が少なからずいる。そうした人々との何気ない会話には、ほとほと自分自身の教養の無さに辟易とした経験が少なからずある。私自身、おそらく、世間並みには読書家と言ってよく、しかも、様々なジャンルを渉猟している。加えて、研究者の末席を汚している。研究分野は文学ではないし、過去の文献を踏まえることは当然のこととして学んできたものの、むしろ経験を元にして記述することが、私にとっての主要な「書く」という行為ではあるのだが。
ところが、友人たちとの何気ない会話(研究に関わるものではない)では、ついていけないことに悩んできた。もちろん、知るべき(読んでいるべき)対象がイギリスの教養人とは異なっているから、やむを得ないともいえるということは言うまでものないのだが。したがって、日本のことを話すときには会話の主導権を握る事ができることはいうまでもない。とはいえ、会話はイギリス人およびイギリス連邦人が多数の中に交じるので、当然のことながら、話題の多くは彼らの教養のジャンルに集中することになってしまう。こうした経験を踏まえて、本書の解説を読んでわかったことは、私がオーストラリアやニュージーランドで会話してきた人々は、上流階級の人ではなく中産階級の人々であったということのようだ。
さて、本書が描く女王は、読書に目覚め、あろうことか自身の経験を踏まえて分析し何事かを書き記すことにも目覚めたのだ。「君臨すれど統治せず」というのがイギリスの統治者のモットーとはいうものの、読書を踏まえて経験を分析し書きとどめ、それをもって、為政者に賢明な助言を与える可能性に気がついた女王は、本書の中でも退位後本を執筆することを匂わしている。本書の最後のシーンは、女王の80歳の誕生日を祝う食事会におけるシーンであった。実際には、女王は昨2022年9月に96歳で薨去するまで退位することなく君臨し続けたわけで、本書はあくまでもフィクションとしての地位を保ったことになる。
我が国の政治家や高級官僚たち、彼らは我が国の上流階級(イギリスのそれと匹敵する)と言えるのであろうか。つまり、イギリスの上流階級のような「知的でないことの重要性」を担保されるべき人々なのだろうか。いや、決してそうは思わない。彼らこそは日本的中産階級の上辺の存在として、あくまでも教養を高めるための多様な領域の読書をふまえ、収集した事実や自己の経験を分析する能力を持ち、業務を遂行すべきだと思う。かれらには、本書を読んで読書をしそれを踏まえて上で自身の経験を分析し客観的に(主観的にであってもよいが、独善的ではないことを理解し、それを踏まえて自己分析のできるという意味)事態を認識できる教養をもつべきだといいたい。そうしたかれらには、ぜひ、読書の出発点として本書を読むことを薦めたい。