2年ぶりでしょうか奥多摩に行ってきました。20年ほど前、奥多摩の古い作物を中心とした民俗文化を調査するために何度もこの奥多摩地区を訪れたことがあります。この奥多摩も、この20年間にずいぶんと変わってしまいました。調査に訪れた古老も、ずいぶんと亡くなったり又は施設に入っておられます。まずは奥多摩ダムにある施設で休憩しました。この施設では毎年秋に、この奥多摩ダムに沈んだ村に伝わる伝統芸能の発表があります。
奥多摩を代表する奥多摩ダム 湖底に沈んだ村を祭るなどの施設
当時調査したのは、この地域で日常的に栽培され食べられてきた雑穀文化です。作られた代表的な作物は、夏作物としてヒエ,粟,シコクビエ,小麦,もろこし,小豆などです。冬作物として大麦がよく作られてきました。奥深い山間地域ですので稲作は出来ませんでした。お米はとても貴重ではれの日ぐらいにしか食べなかったそうです。お米の入手方法は、炭焼きや箸作りなどを生産した代金で買っていたそうです。調査後、しばらく奥多摩に来る機会がありませんでしたが、最近は4年前,3年前,2年前とほぼ毎年訪れています。
奥多摩湖から見上げた民家、昔道(むかしみち)のスタート地点
この地域では平らな畑がほとんどありません。転げ落ちるような急斜面に畑が作られており、その畑にヒエや粟などの雑穀が作られていました。ほんの5,6年前まではヒエや粟が作られているのを何箇所か見かけましたが、今は一軒しか見ることができません。
奥多摩ダムから湖を見て、太陽が反射して湖面がキラキラ光る
雑穀を作っていたのはほとんどがお年寄りでした。その古老達が亡くなるたびに雑穀食の分が無くなるのは寂しいものです。私の手元にある種々の雑穀(ヒエ,粟,シコクビエ,黒斑小豆など)はこの奥多摩で手に入れたものです。
山の急斜面に張り付くように民家が並ぶ奥多摩山間部
奥多摩ダムを過ぎると道なりに峰谷地区に登りました。この地区は昔は一つの村だったとのこと。山の底に流れる川に沿って民家が多く立ち、山の急斜面に沿うようにパラパラと民家が並びます。20年ほど前、この付近は冬作物の大麦がたくさん栽培されていましたが、今回行ってみて全く麦類が作られていませんでした。ちょっと寂しい気持ちです。
山の西側、午後遅くまで日が当たる 山の東側、午後になるとすぐ日陰に
山の斜面に作られた畑はほとんどが耕作放棄されていました。放棄された理由は、栽培する古老がいなくなったり、イノシシや猿の被害などが上げられます。実際、今日道を通っていると猿が民家の屋根を歩いているのを見かけました。
植林した常緑樹と落葉した落葉樹がモザイクになった山々を遠望
奥多摩は登山道がたくさんあるため、山のふもとにはハイカーの車が何台も置いてありました。日帰りで山に登るために、山のふもとに車をおいたのでしょう。私も、神奈川山岳会に所属していた頃に雲取山を代表とする奥多摩の山々をよく登ったものです。
奥多摩の山肌に張り付くように並ぶ民家
奥多摩の峰谷地区を降りて、元奥多摩有料道路を通りました。12月初旬のためまだ道路は凍結していませんでした。比較的有名で、走りやすい道路のためか、車が何台も走っていました。自転車で走っている姿もちらほら見かけました。私も二十歳頃に初めて買ったスポーツタイプの原付で、この道を通るために横浜から来たことがありました。当時、この道路は有料でした。
湖面に浮かぶ小さな山々 道すがら見下ろした湖面
元奥多摩有料道路は三頭山の頂上を迂回するように走っています。そして、途中に「都民の森」施設があります。この施設の横を通ると、たくさんの車が駐車しており満車の表示がでていました。10数年ほど前、反対側の山梨県側から登ってこの施設に降りてバスで帰ったことがあります。さまざまなハイキングコースや森林体験コーナーがあったように思います。実際、神奈川山岳会に所属していたときにこの付近のルートを歩いたことがありました。
元奥多摩有料道路の休憩地点から、奥多摩湖を見下ろして
私は元々田舎生まれの農家兼酪農家育ちのためか、都会生活になじめない時があります。そのため、この奥多摩のしかも山間部に来るとホッとするものがあります。山の緑と空の青に染まる民家のたたずまいを見るだけも癒されます。
さっき登って降りた奥多摩の峰谷地区の山々と東京都最高峰雲取山を遠望
元奥多摩有料道路を過ぎると、新宿などの都市が遠くに見える箇所があります。ここで、休憩をとりました。この頃になると、日差しも陰るようになり寒くなってきました。あとは、自宅のある八王子に向けてひたすら走りました。
新宿などの都心が遠望できる休憩所で休息