すぷりんぐぶろぐ

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野口先生こそ、自律の人である

2006年08月06日 | 雑記帳
鍛える国語教室イン津軽に参加した。

この夏、2回目の野口先生の講座拝聴である。

会の最初の『野口流素材研究法』。
先生は「素材研究」の大切さを強調しておられることは十分承知していた。
何回かその具体的手法の講座もうけたときがある。
しかし、今回はその意味付けを「水源の高さ」という言葉で表し
その重要性を一層強く訴えられたように思う。

実際に問いかけられながらの分析によって
私だけでなく聴衆のほとんどが、自らの読みの浅さに気づいていった。

ある面で見れば、かつての教育技術の法則化運動によって広まった
「100の発問づくり」「すべての言葉を辞典で調べる」にも似ているが
そのレベルを一つ突き抜ける深みがある。
今回の例でいえば、
「アーチ橋」の読み方であり
「そうです」の後の読点である。
言葉への関心、こだわりを持ち続けることによってしか
そうした視点はうまれないだろう。
(そういえば、先生を車でお送りしたときに、
 通りすがりの店舗の名前の由来なども聞かれたことがあった)

その後の音読の模擬授業、教養講座でも
もちろん何度も聴いたお話はあるのだが
必ず、「えっ」という意表をつく言葉や
メモしておきたくなるフレーズが出てくる。
これこそ、野口講座の醍醐味であり、
先生がいかに言葉にこだわり、どれほど言葉を吟味しているかを
私たちに想像させてくれる証拠でもある。

今回、筆圧を込めてメモした一つに次の言葉がある。

 実態に制度を合わせることを「くずれ」という

実態にあわせて、という言辞はかなり常識的であり、一般的だが
そこに向かう私たちの意識はどうなのか、
と強く問われている気がした。

最後の講座で、先生は
「この野口は、自律か、他律か」と聴衆に問われた。
ある方が、先生の「他律的自律」という造語を知っていて
「他律」に挙手なされていたが、それは解釈を間違えているだろう。
むろん私も知っていた。
「他律的自律」は私にとっても処世訓の一つである。
しかし「言うは易く行うは難し」である。
他律的と頭につけても、自律は自律している姿なのである。

野口先生こそ、自律の人である。