すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

「みがく」への道

2006年08月07日 | 読書
 2月に他界された家本芳郎氏の本を読んだ。
『〈教育力〉をみがく』(寺子屋新書)である。

 教育雑誌を彩ることばとしても「○○力」ブームは続いているが
「教育力」ということばは、そうした新語?とは違ってずいぶん以前からあったと思う。
 学校の教育力とか家庭、地域の教育力という使い方をしていたはずだ。
 しかし、ここで掲げられている〈教育力〉は、教師に限定されている。
 もちろん、それは私自身一番関心が高いことだし、学校教育の現場として肝心なことでもある。

 氏は、こう定義する。

〈教育力〉とは、指導の力、人格の力、管理の力である

 それぞれの力量について、具体的で説得力のある文章が綴られている。
 精神論や観念論ではなく、技術を伴ってそれらの力量をつけるための道筋のヒントが豊富に記されている。

 よく「やめろ」「やめなさい」は、十三通りのニュアンスで表現できる技量がほしいと言われる。

 要請された指導項目は「時間軸」「軽重」「対象」で仕分けして、指導しなくてはならない。

 こういう研究で大切なことは、一つの方法に統一しないことだ。たとえば「毅然とした態度で『私語はやめなさい』と注意する」というように統一しないことだ。みんながみんな、体育の教師のようにみるからに怖そうではないからだ。目標は「私語をやめさせる」ことで、その方法は「各自の自由」である。

 
 氏は、「自分を知る」ことを大切にされ、「指導」を中心に自分の教育力をみがいたという。
 しかしその指導を支えるのは、人格であり、日常の姿勢であることをけして忘れなかった。「高める」「伸ばす」ということでなく、「みがく」ということばを選んだことにそれを痛切に感じるし、この本にある数多くエピソードがそれを顕著に物語っている。
 あとがきに書かれた「パチンコ屋」での親とのエピソードに、冷静な眼差しに裏打ちされたどこまでも熱い氏のハートを感ずるのは私だけではないだろう。

 氏の群読の講座を受けたのはたった1回きりであったが、あの張りのある声での統率力は、今も鮮やかに思い出すことができる。