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「対応技術」を高めるために・その2

2006年08月10日 | 読書
「○○さんが聞いていなかったから、もう一度言って」

 この言葉かけの素晴らしさを、私はこのように見る。

 まず、これは小林氏も書いているが「声の小さい子」に責任を感じさせるような言い方でないことである。
 次に、対象がその子だけでなく、聞いている子どもたちにも向けられていることである。注目したのは○○さんだけではないはずだ。
 さらにこの言葉は、発言は学級の誰かに聞かせる目的があることを示しているとも言える。向山氏の場合、その目的は「討論」への結びつきとして、意識されているのだろう。
 そして、何よりこの言葉かけは、学級の全ての子に視線を配っているからこそ、具体性を帯びるのである。

 さて、こう書いていると、子どもへの対応技術を高めるために必要なことも見えてくる。
 なんといっても「その子を認める」という姿勢である。
 力や性格などをまるごと認めることである。その子の悪いことを前面に出さず、いいところ、光るところを取り上げることである。
 次に「全体に対して波及させる」という意識である。
 対応技術といったとき、概して特別な相手や事象に関してとなるのだが、それらは決して特別なことでなく、誰も普通に行うべきことという認識を他の子どもが持てるように配慮していくことは、かなり重要だろう。学級における個別的な指導では欠かせないはずだ。
 「目的の意識化」に裏打ちされて言葉が発せられ、動きが形づくられる。常に持ち続けることはかなり高度と言える。身体化と言っていいかもしれない。指導者としてはもちろんだが、目的が子どもへ向けて何らかの言葉や動きとして表されることも大きい。願いは繰り返し語られることで叶う。
 最後にこれらを成り立たせるために、「子どもを絶えず見る、深く見ること」抜きにはできない。そのための方法(授業の中では、立ち位置と目線の使い方など)を何より身につけなければならない。

 この夏、いくつかの国語の模擬授業を見た。見たといっても全て生徒役としての参加なので、深い分析はできないが、教材文を生徒に一斉音読させるとき「指導者の目線」がどう動くか、(音読しながら)私は注目していた。あくまで私の見た範囲では、予想した目線の動き方はなかった。(もちろん、私が教材文に集中していたときに、そういうことがあったかもしれない)。
 従ってその時点で全体的な評価はされた方はいたが、個別的な対応技術を駆使した方は残念ながらいなかった。

 些細なことに技量が表われるというが、その意味で対応技術への注目は様々なことを教えてくれる。