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見えやすくするのは、実践法

2006年08月30日 | 読書
 およそ10年前に発刊された本である。
『斎藤喜博 教師の実践小事典』(笠原肇著 一莖書房)を読んだ。

 はしがきに次のような文章がある。

斎藤喜博の教育実践法を復活させるしか、もう道はないと言えそうだ。
この真摯な教育実践法と子どもの可能性を信じきった方法以外に、現代の子どもを救う道はない。


 笠原氏には、『斎藤喜博 国語の授業小事典』や『評伝 斎藤喜博』という著書もあり、かなりの研究を進めたうえでの著作であることには間違いない。

 はしがきは、次のように続く。

膨大な全集の中から「出勤」~「帰宅」まで百項目を抽出した。どこから読んでもその日の糧になる。


 確かに、見開き2ページに、半分が斎藤氏の文章そして半分が笠原氏の文章というスタイルは、読みやすく、刺激的で含蓄のある文章が並んでいる。「糧」になり得ると確かに思う。
 その意味で、いい教育書のひとつではある。

 しかし、「斎藤喜博の教育実践法」はあまり見えてこない。
 具体的な記述が少ない、断片的な事実があってもそれにつながる分析や手法が書かれていない。
 まったく斎藤氏のことについて白紙の読者であれば、これらは何のことかと思うのが関の山かもしれない。

 笠原氏は書いている。

私は自分の実践の貧しさ、小ささを実感していますから、斎藤喜博の現出した教育実践のすごさに驚き、共感し憧れるわけです。自分で少しでもそういう実践をしたことがあれば、斎藤喜博の実践がどれほどすぐれたものであるかがわかります。

 確かにそうかもしれない。私が尊敬している何人かの実践者も大いなる影響を受けていることを公言している。わずかではあろうが自分なりに感じ取れるものもある。

 しかし、繰り返すが私にはこの本から「教育実践法」はほんの少ししか見えてこない。
 見えてくるのは「教育実践姿勢」である。本の構成上、断片的な形ではあるが、それでもすさまじいまでの実践姿勢は強く伝わってくる。例えば、次のような文章である。

教育の仕事は、教師や教育研究者が精神の飢えを感じることによってつくりだされていくものである。

学校体制などということを考えるより、自分の声の質なり話し方なりを考えることが、一つの道徳になるわけです。


 「教育実践姿勢」と「教育実践法」は、密接なものではあるが異なるものである。
 上のような姿勢が、どんな方法と結びついていったのか。おそらく笠原氏は、技や方法を提示しその結びつきを指摘できるだろうが、それを進めようとはしなかったのだろう。

 その意図を感じながら、なお思ってしまう。
 見えやすくするべきは、やはり「法」ではないか…。

 改めて自分の立つ位置を確認できたような気がする。