すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

分をわきまえた授業

2006年08月15日 | 雑記帳
 町内で行われた算数数学の夏季研修会に参加した。
 筑波大学付属小より坪田耕三・細水保宏両先生を迎えての研究会である。

 提案授業は細水先生による「数と図形の不思議」。6年生が対象の「発展的な扱いによる授業」である。
 30℃を越していることは明らかの室内、風もあまりない状態だったので、ぼんやりとした頭で会場後方からの参観となった。
 付属小教官らしく手際のよい進め方であるし、児童への声かけもふんだんにあり、さすがと感じた。時間が延びたことを除いては、かなり好感の持てる授業だった。

 パネルディスカッションという形で小一時間研究協議が行われたが、そこでもまた得心のいったことがあった。

 パネリストでもある坪田先生がおっしゃった「子どもに発見を促す方法の工夫」「アイデアの価値付け」などは、確かになるほどなあと思わされた。
 そういえば、数年前二年続けて参観した坪田先生の授業は、そうした要素が確かにあったと思い起こされる。
 それが、名人芸と言われる所以でもあるのだろう。

 しかし、今回私は細水先生の言葉や手法に強く惹かれた。
「同じことを繰り返す」
「一度使った考えをもう一回使う」
「いつも具体的操作をすることはない」等々
 これは授業運営法としてかなり重要な視点だと考える。
 他のパネリストが言った提示の仕方のアイデアや個別の作業場面の必要は、わからぬではないが、授業者の考えは明快であり、それが私には提案性に見えた。
 子どもは、繰り返しを好む。そして同じことであっても、きちんと手法を適用して解決できたこと自体楽しむものだ。
 その意味で、本時の流し方はかなり子どもの実態に即したものだったと言えるのではないか。

 パネリストの方がやや批判的な問いかけをした。
「楽しいと感じたのはどの場面だったのでしょう」
 それは個々の子どもに聞かなければわからないことだが、けしてパネリストが想定するような思考や作業の場面だけに楽しさがあるわけではない。
 先生に声をかけられ、認められたことも楽しさと言えるはずで、それを多くの子に作り出したのはあの「繰り返し」なのである。

 「もう一歩先を目指しての教師の働きかけ」は結構高度なことだし、力足らずの教師では火傷することも多い。
 子どもが混乱したままに終わる授業を何回見たことか(したことか)。
 
 分をわきまえた授業は子どもを混乱させない。