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説明を工夫するという責任

2007年03月03日 | 雑記帳
 昨日は年度末のPTAが行われた。
 どこの学校においても、会長挨拶、校長挨拶、そして生徒指導や保健関係の話が続くパターンが多いことだろう。本校も全くその通りに流れた。

 ふと、思った。

 こういう姿は、二十年前、三十年前と変わらないんだろうな…

 例えば、授業はその当時と比べればかなり様変わりしているのではないか。
 指導法も形態も、使われる機器も、子どもに対する接し方にしても、総じて見れば大きく変化しているはずである。
 それに比べて、こうした保護者との会には、あまり工夫がなさすぎのように思われる。

 役員や教員の一方的な話、それを無言で聞く保護者。
 たまに意見や苦情が出て、多少のやりとりはあっても、活発な議論は望めない。
 時間的な制限があるので議論主体にするというのは無理があるにしても、全体でそこに集まる意義ははっきりさせた方がいい。

 全体会へあまり参加したがらない保護者がいるのは、まさしくその意義を感じられないから、という表れではないか。(もちろん、また別の要素もあるのだが)

 大きく二つの点を考えていく必要がある。

 まず、会の構成や流れは現状のままでいいかという点である。
 これは、やはり役員が主体的にアプローチしていく命題だと思う。
 たぶん、会の持ち方を考えるということは、PTAの活動そのものを変えるということにつながると思う。

 もう一点は、会員全体に知らせる方法の吟味である。
 その役目を持つ教員の責任は大きい。それが、それぞれの担当に任せられていいものか、という気もする。
 例えば、生徒指導担当者の話はあるのだが、それを二人組で行うような形式を私は見たことがない。生徒指導部はあるのにその面では機能していないということだ。
 それ以前に、何をどう言えばいいか、もっと吟味されるべきかもしれない。
(もちろん職員会議で確認はするが、伝え方まではあまり論じられない)

 書き進めていくうちに、手をつけてみたいことの一つとなった。
 
 説明責任は、説明しただけでは済まないだろう。その意識をどう表面化させるかだ。