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言い訳から見えてきた問題

2007年03月19日 | 雑記帳
 『効果のある学校』(鍋島祥郎著 解放出版社)がどうにも読み終わらない。
 実に興味深い本であり、触発される箇所も多かいのだが、どうしてこんなに遅々とした読み進めなのか…自問してみたら、一つは「問題」であるなと思った。

 この本の下地には明らかにそのことがあり、興味深く読んでいるようでも、いまひとつ想像できない自分がいるのではないか。
 私だけでなく、東北地方少なくても秋田県に住んでいる者にとって、その問題をイメージすることは困難なのかもしれない。

 社会科の教科書にある記述によって、今も地域によって「差別」があることを知ったのは、小学生の頃だったろうか、中学生だったろうか。
 映画「橋のない川」を集団で見せられたのは、学校の中だったろうか、地区に一つある映画館であったろうか…。
 入った大学も宮城だったので、「同和問題」という言葉は知っても、その話題について突っ込んだ記憶はない。
 問題についてその程度の認識しか持たずに生きてきた。

 自民党の元代議士である野中広務に関する本を二冊ほど読んだことがある。
 数年前、つくば市で行われた数週間に及ぶ中央研修で、関西地区の参加者より生々しい現実を聞いたことがある。
 
 それらに驚きはしても、なかなかぴんときていなかったことも事実だ。

 「差別」という言葉を、一時の流行のようにとらえていたような記憶さえある。自分自身にある鈍感さは、もしかしたら周辺の教員に共通するのかもしれない。
 だから、鍋島氏のこんな記述にはどっきとさせられる。

 家庭的・文化的条件によって低学力で苦しむ子どもたちの指導方法、学習到達度の把握方法等においては、学校の中では見るべき進歩がほとんどなかったと言っていいだろう

 この表現は、被差別のことだけを対象としているわけではない。
 
 身の周りにそんなことがなかったかを問いかける。
 そして今、社会的な構造の問題として確実に表面化してくると予想される。
 着手は急がなければならない。