すぷりんぐぶろぐ

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「見せびらかす」という共有

2007年03月01日 | 雑記帳
 先日の研究会のシンポジウムで聞いたある言葉が、どうも耳を離れない。

 見せびらかす

 心理学の教授が使った言葉だ。

 この言葉の意味、ニュアンスには、「自慢」があり、どうもいい印象はないのだが、その教授は、そうした一般的な意味を承知しながら、実は見せびらかすという行為は、このように解釈されるといった。

 人は物事を相手と共有できることがうれしい

 自分ができることや持っているものを相手に示すことは、その現実を共有することになる、というのは確かである。
 また、見せびらかしてうれしいという感覚もわかる。

 ただ、共有するということ自体に嬉しさがあるのか。もし相手ができない、持たない者と知っているならば、相手に対しての優位性が感じられるから嬉しいのか。
 そのあたりは非常に微妙であるなあ、と。

 自分が知っている情報について話すということについても「見せびらかす」は該当するのだろう。
 その場合、共有してうれしいのは、その相手との関係性が大きく左右する。
 もちろん、共有してうれしいという関係は、良好であり、質として好ましい気がする。
 そういう意味では、知識や情報を見せびらかす関係があることは、素晴らしいことと言えそうだ。

 休み時間に、廊下を歩いていると、一年生が次々に寄ってきて
「見て見て、うしろとびができるようになったよ」
「ぼくは、交差とびできるよ。数えて」
などと、縄跳びの技披露をしたがる。

 これは明らかに「見せびらかす」であり、彼らにとって、そのことはうれしい行為なのだが、そして「すごいねえ」「ほんと。上手だあ」と誉められて、さらにうれしくなるのだが…。

 私にとって、この行為をどう受け止めるかを、心の底から考えないといけない。
 つまり、共有できる相手として存在するために、本当にその成長を喜べるような働きかけ、見守りをしているかどうか、という一点である。