先日の研究会のシンポジウムで聞いたある言葉が、どうも耳を離れない。
見せびらかす
心理学の教授が使った言葉だ。
この言葉の意味、ニュアンスには、「自慢」があり、どうもいい印象はないのだが、その教授は、そうした一般的な意味を承知しながら、実は見せびらかすという行為は、このように解釈されるといった。
人は物事を相手と共有できることがうれしい
自分ができることや持っているものを相手に示すことは、その現実を共有することになる、というのは確かである。
また、見せびらかしてうれしいという感覚もわかる。
ただ、共有するということ自体に嬉しさがあるのか。もし相手ができない、持たない者と知っているならば、相手に対しての優位性が感じられるから嬉しいのか。
そのあたりは非常に微妙であるなあ、と。
自分が知っている情報について話すということについても「見せびらかす」は該当するのだろう。
その場合、共有してうれしいのは、その相手との関係性が大きく左右する。
もちろん、共有してうれしいという関係は、良好であり、質として好ましい気がする。
そういう意味では、知識や情報を見せびらかす関係があることは、素晴らしいことと言えそうだ。
休み時間に、廊下を歩いていると、一年生が次々に寄ってきて
「見て見て、うしろとびができるようになったよ」
「ぼくは、交差とびできるよ。数えて」
などと、縄跳びの技披露をしたがる。
これは明らかに「見せびらかす」であり、彼らにとって、そのことはうれしい行為なのだが、そして「すごいねえ」「ほんと。上手だあ」と誉められて、さらにうれしくなるのだが…。
私にとって、この行為をどう受け止めるかを、心の底から考えないといけない。
つまり、共有できる相手として存在するために、本当にその成長を喜べるような働きかけ、見守りをしているかどうか、という一点である。
見せびらかす
心理学の教授が使った言葉だ。
この言葉の意味、ニュアンスには、「自慢」があり、どうもいい印象はないのだが、その教授は、そうした一般的な意味を承知しながら、実は見せびらかすという行為は、このように解釈されるといった。
人は物事を相手と共有できることがうれしい
自分ができることや持っているものを相手に示すことは、その現実を共有することになる、というのは確かである。
また、見せびらかしてうれしいという感覚もわかる。
ただ、共有するということ自体に嬉しさがあるのか。もし相手ができない、持たない者と知っているならば、相手に対しての優位性が感じられるから嬉しいのか。
そのあたりは非常に微妙であるなあ、と。
自分が知っている情報について話すということについても「見せびらかす」は該当するのだろう。
その場合、共有してうれしいのは、その相手との関係性が大きく左右する。
もちろん、共有してうれしいという関係は、良好であり、質として好ましい気がする。
そういう意味では、知識や情報を見せびらかす関係があることは、素晴らしいことと言えそうだ。
休み時間に、廊下を歩いていると、一年生が次々に寄ってきて
「見て見て、うしろとびができるようになったよ」
「ぼくは、交差とびできるよ。数えて」
などと、縄跳びの技披露をしたがる。
これは明らかに「見せびらかす」であり、彼らにとって、そのことはうれしい行為なのだが、そして「すごいねえ」「ほんと。上手だあ」と誉められて、さらにうれしくなるのだが…。
私にとって、この行為をどう受け止めるかを、心の底から考えないといけない。
つまり、共有できる相手として存在するために、本当にその成長を喜べるような働きかけ、見守りをしているかどうか、という一点である。