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教師の目は鍵になる

2007年03月27日 | 読書
 『なぜ勉強させるのか?』(諏訪哲二著 光文社新書)を読む。

 プロローグ~そして「学力向上」だけが残った~から始まり、時代論、学校論、指導論、子ども論、そしてエピローグ~勉強するにも、させるにも覚悟がいる~まで、骨太の理論とさすがの目配せで、納得させてくれる好著である。

 教育は、子どもを近代的個人にしていく「社会化」である
 「学力」だけでなく「人間形成」も大事


 特に目新しい論ではないが、現状を踏まえてそのことがどう捻じ曲げられてきたか、最近の動向とどう対峙しているかがよくわかる。
 また、「近代」とは何か。「個」とは?そして教育の「私事化」「超私事化」といったことについても考えさせるし、身の周りと照らし合わせたくなる文章が多かった。

 題名は「なぜ、勉強させるのか」という大人向けのタイトルであるが、エピローグの文体そのものは「なぜ勉強するのか」と位置づけられ、「近代的個人」になるための「『この私』否定」が強調されている。
 三つの項目立てが要点となる。

 勉強は嫌いでいい
 「ありのまま」から「あるべき」へ
 考えないで、受け入れる


 現場教師としてその論はわかったとしても、「なぜ」の次にどうしても頭に浮かぶのは「どう」という点である。

 「どう、勉強させるのか?」
 この点について、陰山氏やTOSSについて触れた文章があることは手がかりになるのかもしれない。
 諏訪氏は、陰山氏の文章や発言をもとに、いくつかの「注意点」を掲げている。
 また、向山氏の「教師の『低授業力』」論についても言及し、物足りなさを書いている。

 大局論からすれば確かにそうなのかもしれないが、実際に子どもを目の前にしたときどう指導していくかこそ核であり、その面で陰山氏やTOSSが手がかりになる実践を提示していることは、現実である。
 そして「早寝早起き朝ごはん」も「黄金の三日間」も、諏訪氏の次の文章と整合していると思う。

 学校というところはその四割以上もの比率で、毎日子ども(生徒)の「知」へと向かう身体性を訓練していると言っても過言ではない

 自らの感覚からすると、小学校においてその比率は四割どころでなく、六割、七割と言ってもいいように思う。
 その視点で様々な教科指導や学級経営の実践を見ていくことこそ、今最も現場に必要なことであり、繰り返し強調していくことではないか。

 指導マニュアルの背景にそれらを感じ取れるか、という教師の目は鍵になる。