すぷりんぐぶろぐ

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ほら来やがったと受けとめろ

2007年03月13日 | 読書
 十数年前だと思う。雑誌記事だったかラジオからの声だったか定かではないが、それ以来ずっと忘れていないフレーズがある。たしか米国人が自国との比較において語った言葉だった。

 日本は裕福な時代の子育てをしたことがない

 ベストセラーとなった『下流志向』(内田樹著  講談社)を読み、見事にそれにつながる文章を見つける。

 子どもたちは就学以前に消費主体としてすでに自己を確立している

 諏訪哲二氏の著書から示唆をうけたこの一文が、この本全体を貫いていると言ってもいいだろう。

 初等教育に携わる私たちにとっては、とてつもなく重い言葉である。

 この本には「学びからの逃走・労働からの逃走」について掘り下げられた文章が、これでもかというほどに書き連ねられていて、深く納得しつつ、少し悲観的な気分になってしまった土曜日の午前であった。

 午後からお隣の中学校の卒業式に参列し、その静粛さや堂々たる態度に感心しながらも、どうにも「消費主体」という言葉が頭を離れない。
 卒業生が目の前で胸を張る姿、泣き顔の純な姿を見つつも、今この地方にも侵食しつつある現実が、少し怖かったのかもしれない。

 振り払って現実に向かおうとするとき、二つの視点が見えてきた。

 一つは、こうした現実が社会的合意を得られるかという点である。
 内田氏はやや楽観的な考えも記しているが、この問題はかなり構造的であると思う。
 正月以来ずっと読みかけのままである『効果のある学校』(鍋島祥郎著 解放出版社)の中にこんな一節があった。

 消費行動が階層関係を再生産する「豊かさのなかの文化的な貧しさ」こそ、今日の階層性である

 この連鎖をくい止めるには、かなりの大手術が必要なことは誰の目にも明らかだろう。
(ここまで書いて、自分が忘れていなかった米国人の声は裕福な層からのものであったことに今さらながらに気づく)
 社会的なアナウンスだけではなく、明確に舵取りの問題である。

 もう一点は、現場人としてどう実践を作り出していくかである。
 難儀さは十分に予想しながらも、これについては前者より悲観的ではない。
 様々な一流の実践者の姿を見てきた。そこでの子供たちの様子に励まされてきた。
 状況は悪化しようとも、それに向かうことが仕事だろうと思う。
 
 困難を抱える子を「ほらほら来やがった」と軽口をたたけるくらいに受けとめられたら最高だ。
 有史以来の存在?にもそう言って立ち向かおうではないか。
 そのためには、やはりシステムとレパートリーだな、といつもの結論になる。