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「力を入れている」と答える条件

2007年03月22日 | 雑記帳
 『学校マネジメント』(明治図書)の2006年11月号に、高階玲治氏が「抽出学テ結果から見えてくる実践課題」と題して、おおよそ次のようなことを書いていた。

 昨年実施した「特定の課題に関する調査」において、教師の指導意識に関する調査を実施した。教師質問紙調査の「漢字指導に力を入れている」かの項目で、「そうしている群」と「そうしていない群」の比較をしたところ、子どもの漢字の読み書きにおける平均通過問題数にほとんど差が見られなかった。つまり指導に力を入れても入れなくても結果がほとんど同じになっている。実効性のある学習(指導)メソッドが確立されていないのではないか。

 調査の詳細について詳しく知らないままではあるが、一応は頷ける見解ではある。
 しかし、分析の視点によってその取り上げ方が適確かどうか議論のあるところだろう。
 そこを棚上げにしたままではあるが、いったい「教師の指導意識」って何だろうと、改めて考えさせられた。

 「力をいれているか」と問われ、「そうしている」と答えるためには何が必要か、ということだ。
 自分ならば、これはシステムができているかどうかだろうなと考える。
 時間の設定、指導の手順、個別指導の配慮、そして評価と対策、といったサイクルが運用できていると判断できたら「そうしている」にするかもしれない。
 いや逆に、数多い指導項目の中で順調に運用できるシステムなど(漢字指導などは比較的そうだと感じる)は特に力を入れているという自己評価はしない時もあるだろう。
「力を入れている」とは、なかなか難しい規準だなと思う。

 そのことも含めて、高階氏の次の言は、少しピントがずれているように感じた。

 教師は、授業でかなりしっかり指導していると思っているであろう。(略)
特に、中学校の教師は教科専門性を身につけた存在のはずである。そうでありながら小学校教師と同じように「そうしている」群と「そうしていない」群とではほとんど差がなかった。

 「授業でしっかり指導」とはどの程度を指すのか、漢字指導について割ける時間はどの位か、中学校の国語授業時数の問題や家庭学習との関連を考えずには、論じられないことだろう。

 また、実効性のあるメソッド作りに教科専門性は欠かせないことかもしれないが、核とはいえない。
 子供たちの学習活動を組織していくこと、意欲を持続させるための流れを作ることに敏感でない者が、「力を入れている」と言ってもそれは空回りでしかないのである。