すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

女坂の教育を成り立たせるには

2007年03月07日 | 読書
 『いじめを粉砕する九つの鉄則』(幻冬舎新書)という、なんとも勇ましい本を読んだ。
 著者谷沢永一氏の文章は目にしたことはあったが、一冊の本として読むのは初めてである。
 前書きにこうある。

 私が心から同情にたえないのは、全国の教師の皆さんの苦衷である。いじめ、が問題になるたびに、まるで教師に責任があると判定するかのような論調が見られる。それはまったくもって不当な言いがかりである。(略)
 繰り返し言う。こと、いじめ、の問題に関するかぎり、学校の教師に責任はない。

 なんとも頼もしい?論述である。
 期待を持って読み進めた。
 そして、思ったことのいくつか。

 まず、題名にややいつわりありである。
 「いじめを粉砕する」とあるが、実は本文にも書かれてあるように「いじめ、いじめられる存在が人間と知れ」が本論なのである。
 結局、「いじめ」は動物の根源的な現象であること、そして問題なのはそれを増長させている社会や家庭のあり方、という焦点のあて方である。その論ならば別に目新しいことではない。

 谷沢氏の「鉄則」は、弱肉強食的な考え方を貫くことと言ってよい。
 「強くあれ」「自分の道を進め」「覚悟して生きよ」そして「自殺させる前にいじめっ子を殺せ」「家に火をつけろ」といった過激なフレーズまで飛び出す、徹底抗戦論者である。
 学校の教師の口からも、「死にたいなら死ね」と言わせることが是とされている。

 この国、社会が持つ脆弱な箇所を見事に言い当てられているし、共感できる部分も多い。毅然とした態度、気概を持ち進めること…それなしにいじめの問題には対応できない。
 がしかし、こと具体的な言動として考えたとき、氏の言うことは非現実的といっていい。
 もうすでに毒が身体をまわり始めた人に対して、うさぎ跳びでもやらせ鍛えることが問題の解決となるだろうか、そんな読後感を持った。

 ただ、谷沢氏はもしかしたら、そうした読者の感覚さえ見通して、自分の主張を展開してみせているのかもしれない。
 最終章が次の文章で終わっていることは、読者への突き放しなのだろうか。

 教育はどこかの段階における磨き上げの完結ではなく、命終に至るまで続くなだらかな行程と見なされている。神社の参詣になぞらえて言うなら、教育の実質は、登りの急な正面の男坂から、ゆるやかな脇の女坂へと、ふりかえられたかのごとくである。

 私たちは、女坂にいるようだ。
 そして女坂の教育は、叱咤や突き放しだけでは成り立たないことも確かだ。