すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

過剰さ、執着の表現は

2010年01月04日 | 読書
 年を跨いでの読了となった二冊目は、

 『編集者という病い』(見城徹著 集英社文庫)である。

 かなり以前のことだが、たまたま見たNHKの「課外授業」で強烈に印象付けられ、それ以来常に気にかかる存在であり続けている。

 番組を見た時、それから番組の記録が出版されて読んだ時、その言葉遣いにある教育界の実践家と共通するものを強く感じた。
 今回も同じことが思い浮かんだ。
 その感覚のもとになっているように思う、本の中で繰り返されるある動詞。

 切り結ぶ 

 「かかわる」や「つながる」や「連携、連帯」などという地平とはまた違った関係のあり方を示す強烈な言葉だ。傷つけあわなければ人同士はわかりあえるものではないという信念である。

 内容としては、編集者生活の三十年あまりの歴史が形式を変えて何度か繰り返されている構成で、広がりを感じさせるものではない。しかし、その分どこまでも深く入りこんでいくようなイメージを受けた。

 痛みのないところに前進はない
 
 見城があとがきに書いた一言である。
 格好のいい表現であるが、そこから著者の姿がどう立ち上がってくるかが肝心であろう。それをあとがきに堂々と書けるところに素晴らしさがある。
 誰にも真似できない、その生き方。傍目には滑稽に見えるほどの過剰さ、執着、渇望等々。

 ふと、それらはかつてもっと世の中に表現されていたのではなかったかという思いがよぎる。
 自分自身も、自分の身の周りでも、いくつも思い出せる風景がある。
 傷つかないための予防だけが蔓延している世の中が、これ以上膨らんでいったらどうなるのか。誰でも抱えている危険な因子、きっと自分自身も仕舞い込んでいるに違いないそんなものは、膨張した未来に耐えられるだろうか…そんなことまで思いが及ぶ。