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遅読『唯脳論』

2010年01月21日 | 読書
 遅読シリーズ?である。
 「唯脳論とはなにか」という章を読む。
 まず本題が書かれている。

 ヒトの活動を、脳とよばれる器官の法則性という観点から、全般的に眺めようとする立場を、唯脳論と呼ぼう。
 
 唯脳論というのは「立場」である。
 この場合の立場とは「見地。観点。考え方」ということである。これは唯物論でも唯心論でも変わりない。
 従って、唯脳論とは脳の「法則性」でヒトの活動を「眺める」のである。
 「法則性」とは「一定の条件で常に成立する関係の傾向」と意味づけてみる。
 そしてこの場合の眺めるは「全体を見渡す」意味もあれば「じっと見る」という両方にかかるような気がする。

 眺めてどうするか、である。何のために眺めるのか、である。

 エルンスト・カップがこう言ったと書かれている。

 「ヒトの作り出すものは、ヒトの脳の投射である」
 
 この場合の作り出すものとは全てを指す。具体的な物体例えば手元にあるクリップから宇宙ステーションまで、そして言葉、社会、文化と呼ばれる抽象的な概念に到るまでが該当する。
 脳という器官の中に起こる活動が、外部のある場所に位置づけられるということが、投射ということであろう。
 誰かの欲望が、必要感が、形をなしていった結果として様々な造形があり、また概念さえ作りだされた。

 この章の一つのキーワードは「交換」ではないかと考える。

 脳は信号を交換する器官である。 
という記述がある。

 つまり、ヒトの活動によって作り出されたものは、何と何との交換であったかという観点で意味づけるために、「眺める」のではないか…これが今のところの理解である。果てしないメタ認知の旅のようだ。