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逸らさないから鍛えられる

2010年01月14日 | 読書
 再読、『悪人正機』(吉本隆明、糸井重里著 新潮文庫) 

 この本は2004年に読んでいる。残念ながら感想等は残していない。一覧におススメというチェックはしているが、結構その時も難儀して読んだだろうなあと思う。

 糸井が発した?「○○ってなんだ?」という問いに、吉本が答えている形の内容である。○○は「生きる」から始まり、「友だち」「仕事」・・・・「戦争」「教育」・・・と多岐にわたり、最後は当時退院後だったこともあって、入院記のような内容で締められる。

 吉本独特の語り口調(以前CDで聞き込んだから、まさにそんな声で語られた感じである)についていくには、やはりある程度の知識が必要だ。
 ただ、様々な体験をもとにしているだけに具体的な重みを持って進められており、所々でぐんっと考えさせられるようなことが多い。
 例えば「ネット社会」の項である。

 人間のいちばん重要な精神の問題ってのは、情報科学の発達で届くようなことではないということですね。
 
 これはぐんっと重みがある。ここでは、感覚と精神を対照的な形で述べていて、感覚の発達が精神の発達に即つながるものではないことを言い切っている。特に「心の動き」を「内蔵の動き」と記している箇所はずいぶんと考えさせられる。
 今、遅読に挑戦している?『唯脳論』との比較も面白そうだ、と秘かに思う。

 では、精神の問題というのはどうとらえていけばいいのか。
 いくつかの他の項でも出てきている気がするが、思い浮かんだのは最後の方で、ある友人について語っている箇所である。
 取り柄のない怠け者の友人が、大きな会社の社長になったという。それはどうしてなのか。吉本はよくよく考えて、こんなふうに理屈づけた。

 要するに、そいつは「逸らさない」んだよなぁ、と思いました。
 
 この点について、周囲の魅力的な人物を想像してみたとき、思い当たる節が確かにある。その話題が不得手であったり自分の意にそぐわなかったりしたとしても、確かに逸らさない人がいる。
 それはやはり心の動きが強い、筋があるといったものなのではないか。精神はそういう場で鍛えられるのかもしれない、と予想してみる。