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一国民の覚悟

2010年01月09日 | 読書
 1月号だから昨年に発刊されたものだろう。雑誌『新潮45』を手にとった。

 背表紙にあった「新春特別対談 養老孟司VS内田樹」に惹かれたのだが、表紙を見ると「333号記念特大号」と赤字で打たれていた。
 その下には「日本の行く末」と大きく書かれ、「佐伯啓思」という名前がある。
 京都大学の教授という肩書きがあり、巻頭を飾るぐらいなのでずいぶん著名なのだと思うが、そちらに疎い自分は初めて目にする。

 民主党へ政権交代があり、その期待や失望、支援や批判、様々な文章を雑誌等で目にしてきたが(実際、じっくりと読み込んだわけではないが)、どうもすっきりしないというか、取りあえず見ましょうという程度で、構えがあまり動くことはなかった。
 
 今回はまあ正月でもあり、少しまともにそうした巻頭論文も読んでみようかと、そんな思いでページをめくった。
 勉強になるなあと素直に思った。例えばこんな件。

 民主主義は「国民」のための政治とされるが、歴史的にいえば、民主政治が「国民の政治」を唱える場合には、常に、「国民の敵」を作り、何かを排除したことに注意しなければならない。
 
 「敵」をどこに設定するかは、その時代背景に大きく左右されるわけだが、今回の政権は「官僚」をターゲットとして始まった。
 しかしそれが本当に「敵」と言えるのか、という根本的な問題を抱えているのが現状であり、おそらく今のような図式は早晩崩れるだろう(もはや崩れているか)。

 そもそもここで使われる「国民」という言葉も疑われる。

 「国民のための政治」などといっても、「国民」というまとまったものはどこにもない 

 結局は「多種多様な集団」に対してどう動くか、利益配分・利益誘導がどう実施なされるか、ということになるわけである。
 自分はどの集団に属しているのか、職種上、世代上、地域上…その点をしっかり弁えて見ることは、いつの時代でも必要なことだが、政権交代という節目であればなおさらである。
 それは生活の安定や状況の改善を願うと同時に、より大きな視野で世の中の流れを追うこととも絡むだろう。

 報道に見られる政治ドタバタへの関心の有無はともかく、目まぐるしい社会変化の中で、物的富に頼った価値観の見直しが求められていることは、もはや言い古されている。しかし、一向に揺るがない現状も一方では見える。自分もまたしかりである。

 不安定で過剰な競争があるグローバルな世界に取り込まれているという事実、それを危機として受けとめていない、目を背けている姿の表れといえないか。
 肩を叩かれ振り向いたときには、しっかり捕まえられているのだという覚悟はできているのか。