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かくしてロボットは作られる

2010年03月09日 | 読書
 本県には「高校生ボランティア」という事業があり、三学期に進路の決まった高校三年生の希望者が、母校の小学校で10日間ほど活動する。

 先月、勤務校にも2人の女子生徒が来校した。
 そのうちの一人の子と話をしたとき、工業大学へ進み介護用ロボットの開発に携わりたいという希望を持っていることを知った。
 その時は「じゃあ私も将来そのロボットにお世話になるかもしれない」などと軽口を叩いて笑いあった。

 さて、なだいなだ氏が書いたエッセイの中に、『ロボット(R.U.R)』(チャぺック作・岩波文庫)という脚本のことが書かれていて、興味を持ったので取り寄せて読んでみた。
 1920年に発刊されたというこのSF作品は、宗教的、時代的な背景がわかりにくい部分もあるが、設定や展開そのものは実に興味深く読めた。
 
 ロボットという言葉は、この作品によって初めて使われた、つまり作りだされたものである。私たちの年代からすれば、その響きは夢、憧れであり、希望であり、明るい未来そのものだったといえよう。

 それは、例えば鉄腕アトムのような形でイメージ化されてきたのだか、今はもうコンピュータ制御によって特定の作業・操作を自動的に行う装置という意味合いの方が強くなっているのかもしれない。
 しかし、その二つがだんだんとすり寄る部分も増えてきて「人造人間」という姿は、もう目の前にあるといってよいだろう。

 チャぺックの描く世界では、ロボットが大量に作られることに人々は働く必要がなくなり、女は子どもを産まなくなった。それは必然的にどういう末路をたどるのか、想像できる。

 現実の社会と安易に比較ができないが、ロボット開発は、少なくても人間の作業・操作を楽にするためであることは間違いない。
 そしてそこには、ある不幸への道が顔を見せていることは確かだろう。
 安易に任せていいこととそうでないことがあるという線引きが、その道を完全に断ち切ってしまうとは言い難い。

 もし、人間の身体・顔に近い介護用ロボットが出来たときに、それに身を委ねることがどんな感情を持つものなのか、ちょっと今の自分には想像できない。

 そして、そのロボットを操作する人間の側が、どんな感情が溜めていくものなのか…おそらくはそうした心理的な研究も行われているだろう。人間はどんなことに反応して感情を育てていくものか、というような。

 そうすれば、どうしたって、つまらないこと、無駄と思えるようなことが大きく左右するのではないか。
 少なくても自分だったら間違いない。
 介護用ロボットで、それが実現可能だろうか…。

 こんな考えも、無駄といえば無駄なのだが。