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新しい何かを生むために

2010年03月19日 | 読書
 『僕たち太陽があたらへん』(福井達雨著 柏樹社)
 
 「止揚学園」「福井達雨」の名前は、かなり以前から知っていたが、じっくりと一冊の本を読むのは初めてだった。

 読んでいて心がうきうきするような内容ではないが、著者の持つ激しい熱が伝わってきて、少し高揚感を覚え、一気に読み切ってしまった。
 「知恵遅れの子の心をもっとしっかり見て」「家族の思いにもっと目を向けて」といったことが情熱ほとばしる文章は、魂の叫びのように感じられる。

 施設の名前として「止揚」を選んだことが、何より著者の止揚的な生き方を示しているだろう。
 個人的に止揚という言葉を知ったのは、この仕事についてからある文集の巻頭言を読んだときだった。
 その意味を深く解したとは言えないまま今まで来たが、この本の中に「二つのものがぶつかり合い、つぶれる。そのつぶれた中から新しい一つの統一体が生まれてくるという意味がある」と記されていて、得心した。

 中間項的な生き方を好む(そう言い訳しながら何か正当性があるように感じている自分がいる)日本人には、およそ受け入れ難い。
 しかしそれほどの決意、決断がなければ、著者の現在はなかったのだろうと思う。
 そして、自分も含めて多くの日本人が、中間項的な生き方、雰囲気に毒されて、抜け出せなくなっていることも同時に考える。
 この本は、現実に正対し、逃げないという気迫の著である。その対象が福祉であれ、教育であれ、それは一貫している。

 そこまで駆り立てられる熱情はどうやって培われたのだろうか。
 古今東西の偉人の伝記にはほとんどの場合、育った家庭、出会った人々の大きな影響が記されるが、ここでもいくつか見つけられる。

 著者が高校生のとき、病床にあった母親が語った言葉。

 どんな時でも目に見えるものより、目に見えないものを大切にしなければいけないんや。
 
 「目に見えるもの」が要求される時代。その推進が請われている時代。それに逆らうことは困難だが、「目に見えないもの」の大切さを末端に追いやってはいけない。

 昨日の卒業式では、そのことを語った。自分に言い聞かせるためにも。