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気は心を伝える

2010年03月28日 | 雑記帳
 家の者と話していて「キハココロ」という言葉がでた。

 当然「気は心」ということなのだが、そう思いつつ、この諺はなんか変だなと感じてしまった。

 意味は「量や額はわずかだが、誠意がこめられていること」とかなり一般的に知られているが、文章として「気≒心」となっているのはどういうわけか。

 もしかしたら「機は心」とか「喜は心」とか、もしかして「器は心」だったりして…などと想像が跳ぶ。

 辞典で調べても、検索しても「気は心」で間違いないわけだが、では「気」と「心」をどう解釈すればいいのか。それが意味とどう結びつくのか。

 ありました、ありました。

 宋学で、「理」が万有を支配する原理であるのに対して、万物を形成する元素を「気」という。〔「こころ」という語が精神活動を行う本体的なものを指すのに対して、「気」はその「こころ」の状態・反応など現象的な面をいう傾向が強い。「気は心」という言葉も、表面的な「気」のはたらきは本体としての「心」の表れであるという考え方に基づく〕
 
 さすが、goo辞書です。

 しかし、「表面的な『気』のはたらきは本体としての『心』の表れである」という考え方はずいぶんと範囲が広いように思うが、それが金品に特化されたのはどういうわけか。
 
 結局のところ、目に見えるものの強さということになる。
 それをあえて「気」と名づけたままにしておくことで、人は自分の思いを伝える術としたのかもしれない。

 ことわざ辞典には、「気は心」の意味に、こんな文章があったことも添えておこう。

 少しではあっても人のために尽くしたと思えば気が済むこと。