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自主も民主も衰えて

2010年06月03日 | 雑記帳
 自民も民主も…ではありません。

 「自主・民主・公開」で検索したら、原子力に伴う運動スローガンのような結果が多かった。
 この三つの言葉は、かつての教育研究運動の精神を示すものとしてピックアップされたものではなかったか、と思っている。

 我が町にある教育振興協議会のことをちょっと振り返っているとき、発足当時の1968年にある方の書いた文章中に使われていた。
 また以前読んだ家本先生の著書の中にも、この三つを一種の流儀のような形で記していた文章を見かけたこともあった。

 では今、この三つの言葉にある精神が教育研究の場に生かされているだろうか。

 「自主」…強制されたものではなく、自分たちで作り上げているかということであろう。作り上げる?そんな余裕などありはしないよ、などという声が聞こえてきそうだ。

 「民主」…ここでの意味合いは、「官」に頼ることなく、ということだろうか。何が官で何が民なのか、その境目もぼやけている。存在として民の団体は確かにあるが、では民主と言えるかといえば、実態とかけ離れている気がする。

 「公開」…これは、教育研究に限らず様々な情報の公開が進んでいると言ってもいいだろう。ほとんど全てのことが公開を前提としているように進んでいる。
 ただ、先の二つが意識できないまま、いや退潮しているなかで、その公開は私たちにどんな影響を与えているのか、吟味するべきではないか。

 公開は、自主や民主の証しであった、またはそれを後押しするものであったのだろうが、今や監視と管理のためにあるようなものだ、といったら言い過ぎだろうか。

 さて、我が町にある組織も現状に照らし合わせた見直しの必要を迫られている。その視点はやはり自主や民主にはほど遠いものだ。どこかで道を間違えたのかと思うほどに衰えている印象だけが残る。

 先日、ある教育研究団体の会議で今年の大会案が示されたが、そこには流行りのテーマが並んでいても、どこか思考停止に陥っている現況、そしてそれに甘えている自分も感じられて、少し口が苦かった。