土曜日の講座を思い起こして、もう一つ記録として残しておきたい。
野中先生が演習・模擬授業的に示した「詩の授業」についてである。
『夕日がせなかをおしてくる』という詩教材を示して、周囲と一緒に10分ほどの「教材研究」の時間をとり、プランを立てるように言われた。
その後、ご自分であれば…ということで、大まかに次のような流れで指導なさった。
1 各自2回ずつ練習
2 指名して一人に読ませる。
3 その読みを○×で評価させる
4 ×をつけた子から理由を聞く
5 詩の読みのポイントについて、発問・説明していく
「五七調」「間」「一息で読む範囲(転調?)」など
6 各自練習させる
7 指名して一人に読ませ、5点満点で点数をつけさせる
8 別の子に読ませ、再び採点させる
指導なさった後に、野中先生は「普通、この詩は群読にするだろうが…」とおっしゃったが、私のプランはまさにその通りであった。
ちなみに私が立てたプランは以下のようなものだった。
1 音読練習
(連れ読み→一斉読み→交代読みの三段階で。交代読みのバリェーションを豊富にして)
2 三人組を作って分担を決め、練習する
(ソロ、ペア、トリオと名づけ、題名の一行を使って例示し、その後、グループ活動とする)
3 発表会をする
(人数、時間によって形式は異なる。十分な時間があれば子供による工夫の説明、感想発表を入れる)
4 まとめ
(発表の例を引きながら、話者の違い、強調する部分について説明し、各自に読ませて終わる)
この二つの計画の違いについて論じようとするとき、仮に対象は中学年、20~30人程度の規模と想定しても、どんな児童にどんな力をつけようとするのか、ということを明確にしない限り、突っ込んだものにはならない。
ただ、野中先生のプランの方が指導事項が明確であり、小刻みな評価によって傍観者を生まない流れになっていることは確かであろう。いわば制約の細かさがそれを保障していることになる。
とすれば「味噌汁・ご飯の授業」を支えるのは、中味(内容)そのものより、茶碗とお椀とお箸をきちんと使わせるかどうかにかかってくるのではないか…とまた、そんなふうに喩えだけが広がっていってしまう。
野中先生が演習・模擬授業的に示した「詩の授業」についてである。
『夕日がせなかをおしてくる』という詩教材を示して、周囲と一緒に10分ほどの「教材研究」の時間をとり、プランを立てるように言われた。
その後、ご自分であれば…ということで、大まかに次のような流れで指導なさった。
1 各自2回ずつ練習
2 指名して一人に読ませる。
3 その読みを○×で評価させる
4 ×をつけた子から理由を聞く
5 詩の読みのポイントについて、発問・説明していく
「五七調」「間」「一息で読む範囲(転調?)」など
6 各自練習させる
7 指名して一人に読ませ、5点満点で点数をつけさせる
8 別の子に読ませ、再び採点させる
指導なさった後に、野中先生は「普通、この詩は群読にするだろうが…」とおっしゃったが、私のプランはまさにその通りであった。
ちなみに私が立てたプランは以下のようなものだった。
1 音読練習
(連れ読み→一斉読み→交代読みの三段階で。交代読みのバリェーションを豊富にして)
2 三人組を作って分担を決め、練習する
(ソロ、ペア、トリオと名づけ、題名の一行を使って例示し、その後、グループ活動とする)
3 発表会をする
(人数、時間によって形式は異なる。十分な時間があれば子供による工夫の説明、感想発表を入れる)
4 まとめ
(発表の例を引きながら、話者の違い、強調する部分について説明し、各自に読ませて終わる)
この二つの計画の違いについて論じようとするとき、仮に対象は中学年、20~30人程度の規模と想定しても、どんな児童にどんな力をつけようとするのか、ということを明確にしない限り、突っ込んだものにはならない。
ただ、野中先生のプランの方が指導事項が明確であり、小刻みな評価によって傍観者を生まない流れになっていることは確かであろう。いわば制約の細かさがそれを保障していることになる。
とすれば「味噌汁・ご飯の授業」を支えるのは、中味(内容)そのものより、茶碗とお椀とお箸をきちんと使わせるかどうかにかかってくるのではないか…とまた、そんなふうに喩えだけが広がっていってしまう。